私はこう考えた、最も平凡な出来事がひとつの冒険となるには、それを<語り>はじめることが必要であり、それだけで充分である、と。これは人が騙されている事実である。人間はつねに物語の語り手であり、自分の物語と他人の物語に囲まれて生活している。彼は日常のすべての経験を、これらの物語を通して見る。そして自分の生活を、他人に語っているみたいに生きようと努めるのだ。

(J-P・サルトル『嘔吐』 白井 浩司 訳)

ここに帰ってきて
あなた宛に少しはしたないことを書く
私自身を超えた
愛についてだ
あなたには、でも
わかりやすいと思う。

(チャールズ・ブコウスキー『町でいちばんの美女』 青野 聰 訳)





久しぶりに外出した。

屋外の光が眩しい。足取りは重く引き摺るように思えるのに、同時に地に足が着いていないような感じもする。故に自然と歩みもゆったりとしたものになる。この不可抗力的な歩行ペースがその日一日のムードを決定付ける。

大阪の人は日本で一番歩く速度が速い、とテレビ番組で取り上げられているのを見たことがある。その意味では、僕はまったくの大阪人であるといえる。大阪弁でいうところの「いらち」、信号であれ、何であれ、長い間立ち止まっているのが我慢できない。自分はもちろん、周りの人がゆっくりと歩いているのを見るだけでイライラする。前から人がやって来ても、避けるのは相手の方、とばかりにそのまま真っ直ぐ突進していく。イライラすればするほど、歩みも忙しいものとなり、苛つきもますます増していく。特に急ぎの用件があるというわけではない。これは性分なのである。

しかし、その日のちょっとした、歩行のチェンジ・オブ・ペースが今まで知らなかったことを僕に教えてくれる。街をゆっくりと歩くのは気持が良い。季節のせいもあるが、それだけではないと確信できるものがある。歩調を速めれば速めるほどイライラが募ったのとは逆に、歩みを緩めてみると、気分が楽になってくるような気がしてくる。光や雲の移ろい、道端に咲く花、散歩中の犬、踏み潰された銀杏の実の独特の匂いさえが愛おしい。前へ前へと駆り立てるスピードの中でただ通りすぎるだけだった街のあらゆる風景が、今やひとつひとつ目に入ってきて、何かを語りかけてくるかのようだ。他人がどんなペースで歩いているかなんて、もう気にならない。前から突進してくる人が来れば避ければいい。今まで10分で懸命に移動していた距離を、ゆっくりと20分かけて歩いたところで、その10分間が何だというのだろう?

歩行速度と気分のこの関連性。これは誰も知らないことなのか、それとも誰もが当たり前に知っていることなのか?しかし、僕はその日、僕が今まで知らなかったことを知った。素敵じゃないか。

靭公園でバラの手入れをしていた女性と話す。バラの種類や性質について詳しく説明してくれる。バラの原種は一季咲きだったものが、何度も交配させて四季咲きになったこと、その初期の品種改良に貢献したのが、ナポレオン1世の妻、ジョセフィーヌであったこと、気温の関係で、春よりも秋のバラの方が色が鮮やかになること・・・・・などなど、いろいろ教えてくださったのだが、こちらにそれらすべてをここに書き記すだけの理解と知識がないのが残念。面白かったのは、レディ・ヒリンドンというイギリスのバラの品種で、「午後ティー(※紅茶飲料のこと)みたいな香りがしますよ」とのことなので、匂いを嗅いでみたら、本当にその通りの香りがしたことで、「目でだけじゃなく、バラの香りも楽しんでください」とは、その彼女の弁。

(2007.10.24)



少し前の話。職場の窓口に小学生くらいの男の子がやってきて、ジュースを買うために自販機に500円硬貨を投入したが、何の反応も無く、返金レバーを回してもお金が返ってこない、と言う。この手の話はよく聞くが、そのうちの多くについては本人の間違い・勘違いであることが後に判明する。「120円投入したのに、70円としか表示されない」→100円玉と50円玉を取り違えていた。「お釣りが足りない」→返却口から取り出したときに落として、自販機の下に潜り込んでいた、等々。こういった場合、たとえ疑わしいものであったとしても、この自販機にはお金の投入履歴が表示される機能は付いていないので証拠があるわけでもなく、また、自販機の収入はこちらには一切関係がないので、基本的には言われるままにお金を返すようにしている(返金分については自販機の設置業者に請求する)。しかしながら、今回は相手が小学生だということで、少し立ち止まり考えてみた。もしこの子が嘘をついているのであれば、すぐにお金を返してしまうと、味をしめて、他の場所でも同じような手法を使うようになるかもしれないし、それではこの子のためにならないではないか、と思い至る。そして、とりあえず自販機のところに行って、自前の500円硬貨を投入してみる。きちんと反応して、ボタンにライトが灯る。返金レバーを回せば、そのまま硬貨は戻ってくる。予想通りの反応が繰り返されるなか、僕は男の子が「嘘でした」と言ってくれるのを待っていたが、さっきは返ってこなかったんだ、と言い張る。やはり証拠があるわけでもないので、後で業者に見てもらうから一応連絡先を、と自宅の電話番号を教えてもらったうえで、500円を男の子に返す。数時間後、商品の補充にやってきた業者の方に事情を話すと、「それは怪しいね」と同調してくれる。早速調べてもらうと、しかし、間違っていたのはこちらの方だった。その自販機は旧500円硬貨を使用することができないので、投入口で旧と新の硬貨を判別し、旧硬貨であった場合は、別のルートを通って返却口にそのまま出てくる仕組みとなっている。男の子は旧硬貨を投入して、その別ルートの途中で詰まってしまったのだった。そして、僕が試しに使ったのは新硬貨のほうだった。すぐに事務所に戻り、男の子の家に電話する。彼はまだ帰宅しておらず、母親に事情を説明して、何度も謝る。(有り難いことに)優しい方で、わざわざ電話してもらって済みません、と仰ってくれる。いえ、済まないのはこちらのほうです。○※▲君は何も悪いことをしていないのに、疑うような態度を取ってしまって。このことが○※▲君の心に傷を与えたりしないよう、すべてこちらの誤りであったと、くれぐれもよろしくお伝えください、と言って電話を切った。

人を疑うのは難しい。人を信じるのも難しい。

(2006.11.6)



薄氷


遠い冬の日のはなし。

まだ子どもだった僕は、父の目を盗んで、寒さで凍った池の表面を歩いていく。
父は僕を助けようとするが、足を踏み出すことができない。
池の氷は薄くて、大人の体重をかけると割れてしまうから。

そして、現在。

父と僕の間にはあの時と同じく薄氷が横たわっている。
お互いに最初の一歩を踏み出すことができない。
足は重たく、年月は人の心を頑なにもしてしまう。

僕はあの冬の日、池に張られた薄氷について考える。
父について考える。

(2002.11、2006.3.14改)



ニック・マクダネル『トゥエルヴ』


世界の首都に生まれて、そこから抜け出せずにいるのは、みんなそれを求めているからだ。欲求がすべて。ここには何かが必要な人なんかいない。たとえば、朝起きたら雪が降っていて、建物のあいだの陽があたる場所は明るく、影がある場所はとっくに暗いときだって、大事なのは欲求だ。きみは何を求める?何も求めないなら、何も手にはいらない。きみは漂い、流され、やがて雪と影の下に埋められる。そして春になって雪が解けたとき、きみが凍ったまま埋まっている場所をおぼえている者はなく、きみはもうどこにも存在しない。

(ニック・マクダネル『トゥエルヴ』 近藤 隆文 訳)


当時17歳の少年が書いたファッショナブルな小説、『レス・ザン・ゼロ』や『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』、あるいは映画『キッズ』を彷彿とさせる、といったこの作品に対する紹介文は、逆に一定の読み手を敬遠させてしまうのかもしれません。たしかにファッショナブルな側面は作品に存在するのですが、しかしながら、先端に生きることの刹那や、そのすぐ先には転落が待ち構えているということは、しっかりと読者に意識させるように描かれているので、時代の表面だけをなぞったような風俗小説とは一線を画す作品になっていると思います。

面白いのは、ある章でAという人物がBに出会うと、次の章ではBが語り手となり、そのBがCと電話を話すと、その次の章では、今度はCが語り手となる、といった具合に、語り手を次々とバトンタッチさせていく手法を用いる点で、それによって物語に広がりと厚みを持たせると同時に、ホワイト・マイクという中心人物(ハイスクールで優秀な成績を収めながらも、大学にもいかずにドラッグの売人をしている。カミュの『ペスト』が愛読書)を要所要所に登場させることによって、韻を踏むような効果をもたらし、物語を不必要に拡散させることなく、統一感を与えることも怠ってはいません。そして、たくさんの登場人物が一堂に会する、大晦日のパーティーのシーンにおいて、それまで積み重ねられてきたものが一挙に爆発してしまう、その悲劇的なカタルシスは圧巻でさえあります。

ひとつひとつの章を取り出してみれば、それほど強い印象は与えられないのですが、それらがパズルのように組み合わされていくうちに、大きな物語が形成されていくに至って、さりげない断片のような文章が、実は綿密な計算によって成り立っていることに気付かされるのです。もっとも、ブレット・イーストン・エリスの傑作『レス・ザン・ゼロ』に比較すると、客観的な醒めた視点などにおいて、若干の甘さを感じてはしまうのですが、そこはまだ若い作者のこと、今後に期待することにしましょう。

(2005.8.28)



スカイハイとはこのことだろうか。高度3万フィート上空で、僕はこれまでに感じたことのない至福に包まれていた。

ハワイに向かう機内。僕は眠れないでいる。

僕は飛行機に乗るのがイヤでたまらなかった。しかし、妻(そう、僕らはいつの間にか結婚していた!)も同じように怖がり屋であって、仕方なく僕は、「飛んでしまえば、後は地上にいるときと変わらないよ」と虚勢を張るしかなかった。

今、彼女は僕の横で、幸せそうな表情を浮かべ、何事もないように眠っている。

結婚の準備は慌しく、式自体もあっという間に終わった。
しかし、控えめに言っても、それは僕の人生の、ひとつのクライマックスとなった。

たくさんの笑顔と「おめでとう」、そして友人たちの心温まるスピーチを思い返すと今も胸が熱くなる。

人生はいいことばかりじゃない。収支決算すれば、むしろ悪いことのほうが多いくらいだ。でも、不思議なことに(そして、幸いなことに)心の濾過装置は、良いことばかりを残しておいてくれるみたいだ。僕らが人生に絶望的になったりせずに、とりあえず前に向かって生きていくことができるのは、この装置のおかげなのかもしれない。

上空でお酒を飲むと酔いやすくなってしまうのだという。
僕は酔っていた。お酒にではない。幸福に、である。

そして、できることならば、このまま醒めないでいてほしいと願っていた。

(2004.6.3)



同窓会


生まれて初めて、同窓会に出席する。
会場に着くと、皆が一斉に僕のほうに振り向く。が、声はあがらない。
Uターンしたくなるのを辛うじて押さえて、席に座る。

知らない人ばかり。
いや、知っていたのに、いつの間にか忘れてしまった人たち。
変わってないなあ。仕事は何してるの?結婚したの?あいつ今何してるか知ってる?

僕も聞き返す。
ところで、名前は?

話しているうちに、少しずつ思い出していく。
見慣れない顔のうえに、昔の面影が徐々に浮かび上がってくる。
忘れていたわけではなかった。奥にしまって、鍵をかけておいただけだ。

午前1時。
残っているメンバーの名前を、僕が順に言い当てることが出来るかどうか試される。
みんな酔っている。
僕も酔っている。

何かを信じてみたくなるときがある。
何なのかは分からない。
何でも構わない。
朝になれば、酔いと一緒に消え去っているのかもしれないけれど。

最後のひとりに向かって言う。
ところで、名前は?

(2002.11.13)



映画の帰り。電車の中でうとうとしてしまう。
夢うつつから眠りへと移行しようとする直前、
車内でステレオ放送が始まる。
どうやら、僕を間に挟んだ格好でシートに座ったオバサンふたりが喋っているようだ。
俯いた僕の頭の上でやりとりされる会話のキャッチボール。
かなりの剛速球。
立ち上がって、席を譲ろうか。
いや、デッドボールは免れたい。
やはり、このまま狸寝入りを続けるのがよさそうだ。
もしかしたら、次の駅で降りないこともないだろう。
電車が止まる。降りない。
その次の駅。
そのまた次の駅。
譲ろうか、眠っていようか。
頭の中で環状線みたいに、堂々巡り。
レールみたいに、いつまでたっても平行線。
次の次の次の次の・・・・・

終点。

(2002.11.9)



普段ほとんど喋ることのない同僚と車に同乗する。
走り始めて5分。予想通り会話がない。
息苦しい。窓を開けようか。いや、窓は開いている。

天候の話をする。人はなぜ天候の話ばかりしたがるのか。
間が持たない。
彼の趣味は何だろう?知らない。
家族構成は?結婚してることは知ってる。子供はいたっけ?
いつもの目的地がやたら遠くに感じられる。

ふと、ふたり共通して知る先輩に思い当たる。
あの人変わってますよねえ、いや、昔はそうでもなかったんだよ、いつからああなったのかなあ、そういえば最近もね・・・
もう話題に困ることもない。窓から入る風が心地好い。
その先輩には、くしゃみくらい我慢してもらうことにする。

目的地まで、もうすぐだ。

(2002.11.7)



言葉


例えば、一冊の本がこの世から消えてしまうとする。
損失には違いない。
だけど、本そのものが無くなってしまうわけではない。
代わりはいくらでもある。

それでは、言葉がこの世から消えてしまうと、どうか。
すべての本のページは真っ白になる。
コミュニケーションも失われてしまう。
代わりが、ない。

君は本じゃない。君は言葉だ。

(2002.11.5)



信じるものなんて何もない


10代の頃は不思議だ。
時間はいくらでもあるのに、焦ってばかり。
しがらみなんてないのに、いらだってばかり。
壁ばかり作って、信じるものなんて何もないって一生懸命信じてた。

「ゴーストワールド」に登場する女の子。高校を卒業しても、進学するわけでも就職するわけでもない。世間が押しつけようとする規格へのアンチテーゼとして、クールを気取って、根無し草のような生活を続けている。

信じるものなんて何もない。
でも、不安と焦燥感ばかりが大きくなる。
ガレージセールをしてみる。客が買おうとする。売るのやめた。
映画館で働いてみる。客とケンカする。一日で辞めた。

古いブルースやジャズのレコードを収集する中年男に出会う。共鳴する。
奏で始めた音は、しかし何かが違う。

私は「正しい」はずなのに。どこも間違ってなんかいないはずなのに。
「誰にも気づかれずにこの世界から消えてしまいたい」

僕らの場合。
少しずつ忘れていく。少しずつ楽になっていく。
どんどん忘れる。どんどん楽になっていく。
何かを後ろに置いてきたことに気づく。でも、それが何だったのかということも、もはや忘れてしまっている。

来るはずのないバスを毎日待ち続ける老人のイメージがいつまでも心に残る。
信じられるものだって、ある。



「ゴーストワールド」(GHOST WORLD)
2001年アメリカ作品
監督:テリー・ズウィコフ
出演:ソーラ・バーチ スカーレット・ヨハンソン スティーブ・ブシェーミ ブラッド・レンフロ ほか


(2002.10.21)



東京


東京には、いつも快く宿を提供してくれる親友の存在もあって、しばしば訪れています。今回は2001年11月29日から12月2日にかけての3泊4日の滞在となりましたが、美術展、水族館、コンサートなどに出かけ、芸術の秋の見本のような日々を過ごすことができました。

まずは29日の木曜日に上野の森美術館へMoMA ニューヨーク近代美術館名作展に行きました。一際展示数の多いマティスやピカソをはじめゴッホ、ダリ、モディリアニ、セザンヌ、モンドリアンといった高名な画家達による素晴らしい作品群に圧倒され、目が眩むような思いがしました。画集などで見るのとはまったく違う、本物ならではの絵の具がその場で匂い立ってくるような生々しさが感じられたとともに、塗り込められた絵の具のタッチには画家自身の人生のドラマが凝縮されているかのようでしばし想いを馳せていました。
捩れた時計が描かれたダリの有名な作品「記憶の固執」は縦横30cmにも満たないようなごく小さな作品であったり、逆にマティスの「ダンス」は巨大な絵画であることを知って驚いたりしてしまうのも実物を見る楽しさのひとつです。
あと個人的には、大好きなジャクソン・ポロックの本物の作品を初めて見ることができたので感激しました。絵のなかに、画鋲や鍵や吸いかけのタバコやマッチなどが埋め込まれているのを発見出来たりもして面白かったです。

その翌日の金曜日には東京文化会館(これも上野にあります)へ学生オーケストラの演奏会に行きました。プログラムはマーラーの交響曲第一番「巨人」とヴェルディの「レクイエム」より第一曲と第二曲です。
特に金管楽器に顕著なアマ・オケの限界もありましたが、オーケストラの音を二つのスピーカーに押し込めざるをえないCDで聴くのとは違って、それぞれの楽器の個性を明確に聴き取ることが出来て、会場いっぱいに響きわたる音の拡がりを体感できるのは生の演奏ならではのものでした。オーケストラの楽団員の数だけ音の数も存在するという自明のことが、実感として理解できたような気がします。

東京滞在最後にあたる2日の日曜日には、葛西臨海水族館に行ってきました。ここの目玉は何と言っても、マグロの巨大水槽で、その水槽の前には座席もありますので、館内に静かに流れるギターのBGMに浸りながら回遊するマグロを何時間でも座って眺めていたいような気分になりました(マグロは急旋回するときに通常あるのとは別の第二の背ビレが出てくるのは知っていますか?)
決して大きな水族館ではありませんが、水槽を上から覗くことが出来たり、それとは気付かないような所に淡水魚の水槽があったりといった仕掛けもあるうえ、「臨海」と銘打つだけあって抜群のロケーションであり、傍には日本最大といわれる観覧車もありますので、格好のデートスポットといえるかもしれません。僕は友人との男二人連れでしたので、観覧車にはさすがに乗りませんでしたが、閉館時間までいた水族館の帰りにちょうどライトアップされた観覧車をバックに記念撮影をしました。

他にも書き切れないくらい色々なことがあり、それぞれ楽しく、また興味深い体験となり、経験となりました。東京は人酔いしてしまうほど、どこに行っても人の波を超えた嵐のようでしたが、そのことが文化を育んでいるのもまた確かです。そのほんの片隅で出会うことのできた事物や人々に対する愛情と感謝の気持ちで一杯になりました。

ところで、大阪に帰る新幹線の中で、手を洗おうと洗面所の前で待っていると、一向に出てくる気配が無いので、カーテンをそっと開けて隙間から覗いてみると、カップルが抱き合ってキスしていました。しばらくは終わりそうにも無かったので、別の洗面所に行くことにして、カーテンをそっと閉じるとともに、僕の東京旅行も幕を閉じました。お後がよろしいようで・・・

(2001.11)

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