ディスク・レビュー8 New
ディスク・レビュー7 (オアシス ほか)
Classical Disc Review (ショスタコーヴィチ 『交響曲第8番』 ほか)
ディスク・レビュー6 (ジーザス&メリー・チェイン ほか)
ディスク・レビュー5 (パステルズ ほか)
ディスク・レビュー4 (ブロック・パーティー ほか)
ディスク・レビュー3 (プライマル・スクリーム ほか)
ディスク・レビュー2 (ベル&セバスチャン ほか)
小さな革命
ディスク・レビュー (プリファブ・スプラウト ほか)
静寂への勧誘
マーラー 交響曲第5番
サントラ10選
マジック・オブ・サティ
Different Trains, Sleepless Nights



Different Trains, Sleepless Nights


眠れない夜にスティーヴ・ライヒを聴いてはいけない。
「ディファレント・トレインズ」を聴いたが最後、クロノス・カルテットのよる演奏が頭の中で朝までエンドレスで木霊し続ける破目になるだろうから。

ライヒの音楽はだまし絵のようだ。
同じようなフレーズが延々と繰り返されるようでいて、幾重にも重ねられた音の中から、あるパターンが引っ込んだかと思うと、代わりに別のパターンが前面に浮上してきて、いつの間にやら最初とはまるで異なる音風景が展開されていることに気付く。
それはまた、眠れない夜に窓から外の風景を眺め続けていると、いつの間にやら、空が白々と明けていたのに気付くときにも似ている。

「ディファレント・トレインズ」においては、ナレーションや機関車の汽笛などのサイレン音が効果音として使われるのではなく、曲を進めていくうえでの先導的な役割を果たし、弦楽器はしばしば言葉のアクセントをそのままなぞっていく。この逆転の発想がこの作品を個性的なものにしている。それでいて、この曲はとてもポップなのだ。

車輪の駆動を想起させるクロノス・カルテットの演奏を聴きながら、どこまでも続くようなレールの上に乗って夜を越えてゆく。

やがて目の前に現れてくる、新しい朝。
しかしそれは、眠れなかった夜と、やはり地続きのものでしかないのだ。

眠れぬ夜はライヒを聴くべきではない。


Steve Reich ・ Different Trains / Kronos Quartet (Nonsuch 7559-79176-2)

(2002.10.20)

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マジック・オブ・サティ


ジャン=イヴ・ティボーデの「マジック・オブ・サティ」を聴く。
ティボーデについて詳しくは知らない。サティが聴きたかったのと、たまたま安く売られているのを見かけたから。
一聴して気づくのは、そのテンポの遅さ。それが聴き慣れたサティとは一味違う色彩感をもたらす。柔らかな光が差し、穏やかな風が舞い込む。
もともと音数の少ない作品に、より多くの行間が与えられ、より多くの意味をそこに探してみたくもなる。

サティの魔法。
ティボーデの魔法。

椅子や敷物と同じように、そこにあっても日常生活を妨げない、オブジェとしての音楽。
『家具の音楽』においてサティが意図したものが、まるでサティの全作品を定義するかのように使われがちだ。
いや、僕もそのように思っていた。サティにまつわる言説を鵜呑みにして、その音楽が喚起する情景から目を逸らし、想像力を締め出していた。
ティボーデの演奏するサティ。
これまで僕がサティの音楽の中に見出すことのできなかった官能を感じる。甘い響きに誘われ、様々な情景が浮かんでくるのを押さえつけることが出来ない。そして、僕は家具を見て官能的に思ったりはしない。
サティの曲のタイトルには風変わりなものが多いのは周知のとおり。想像力を働かしてみる。

君は『風変わりな美女』
僕は『夢見る魚』
『ジュ・トゥ・ヴ』、君がほしい。


the magic of Satie / Jean-Yves Thibaudet (Decca 470 290-2)

(2002.10.28)

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サントラ10選


1. 「欲望」

ミケランジェロ・アントニオーニの不条理サスペンスが60年代のスウィンギン・ロンドンを舞台に展開する。すべてを見ても、すべてが分かるわけではない。映画も傑作なら、サントラも傑作。アルバム中のBring Down the Birdsは、ディー・ライトがベースラインをサンプリングしてGroove is in the Heartで借用したことでも有名。音楽担当はハービー・ハンコック。

The original sound track album BROW-UP ・ Music composed,conducted and played by Herbie Hancock(Turner 7243 8 52280 2 5)

2. 「ロシュフォールの恋人たち」

テーマ曲はアレンジされてCMで使われたりもしているので、誰でも一度は耳にしたことがあるはず。ミシェル・ルグランの代表作のひとつ。カトリーヌ・ドヌーヴとフランソワーズ・ドルレアックの姉妹共演だが、レコードは吹き替え。フレンチ・ポップスに当時流行のジャズ・テイストも盛り込んだ、文句なしに楽しめる一枚。渋谷系(死語)のオシャレアイテムとして、もてはやされたことも。

Bande originale du film LES DEMOISELLES DE ROCHEFORT ・ Musique de Michel Legrand(Polygram 834 140-2)

3. 「ジャッジメント・ナイト」

映画自体は未見。オルタナ系のロックバンドとラップ・ヒップホップ系ア−ティストの組み合わせによる異種格闘競演盤。それぞれの音楽性を並列してみせただけのものから、一方が寄り切った形のもの、また、そのどちらでもない奇妙な融合をみせたものなど、化学反応の結果は様々。しかし、全体のクオリティは高い。ティーンエイジ・ファンクラブとデ・ラ・ソウルによるFallin'、ダイナソーJrとデル・ザ・ファンキー・ホモサピアンによるMissing Linkが特にオススメ。映画と切り離しても、ではなく、映画とは関係なく聴ける。アイデアの勝利。ただ、この企画を映画音楽として実現しようとした意図は不明。

Music from the motion picture JUDGMENT NIGHT ・ Helmet&House of Pain , Sonic Youth&Cypress Hill , Slayer&Ice T etc.(Epic/Sony ESCA 5832)

4. 「レクイエム・フォー・ドリーム」

ダーレン・アロノフスキー監督の前作「π」では、主人公の強迫観念を神経症的なテクノ・ビートで加速させていたクリント・マンセルが、クールな電子音はそのままに、クロノス・カルテットをフューチャーすることにより、モノクロからカラーに変わった映画と同様、奥行きと広がりを感じさせる。映画のテーマのひとつ「中毒症状」は旋律の反復によって表現し、弦楽四重奏の響きが悲劇性を演出。

REQUIEM FOR A DREAM original music composed by Clint Mansell featuring Kronos Quartet(Nonesuch 7559-79611-2)

5. 「KIDS」

KIDS Original motion picture soundtrack ・ Folk Implosion , Sebadoh , Daniel Johnston etc.(London 422-828 640-2)

6. 「サタデー・ナイト・フィーバー」

The original movie sound track SATURDAY NIGHT FEVER ・ Bee Gees , Kool&The Gang , David Shire etc.(Polydor MWZ8105/6 LP)

7. 「ブルー・ベルベット」

日常と非日常、意識と潜在意識、夢と悪夢。「ツイン・ピークス」から「マルホランド・ドライブ」にいたる、デヴィッド・リンチの映画を構成する要素は、すでにこの作品ですべて表現され尽くしているように感じる。リンチの最高傑作であり、今後も彼がこの作品を超えることは難しいのではないか、と個人的には思っている。続くリンチとのコラボレーションにより、ジュリー・クルーズの「フローティング・イントゥ・ザ・ナイト」という浮遊感溢れる傑作アルバムを生み出すこととなるアンジェロ・バダラメンティだが、ここではヒッチコック作品のバーナード・ハーマン的流麗なオーケストレーションが中心。ロイ・オービソンのIn Dreamsが現実と幻想の境目で歌われる。

Original motion picture soundtrack BLUE VELVET ・ Music composed and conducted by Angelo Badalamenti(Varese Sarabande VCD47277)

8. 「パリ・テキサス」

1988年のロッテルダム映画祭で行われた特別アンケート<未来の20人の監督>において、第1位に選出されたのはヴィム・ヴェンダースだった。それから15年以上経った今、ヴェンダースほど評価の下がった監督も珍しい。『パリ・テキサス』から13年後、再びアメリカを舞台とした『エンド・オブ・バイオレンス』を観ると、この間に、ヴェンダースからは決定的な何かが失われてしまったのだと思わざるをえない。それが何かは分からない。しかし、この『パリ・テキサス』にはその「何か」が確実に存在していた。今となっては、ヴェンダース最良の時期に対する、記憶のよすがとなってしまった、このサウンドトラックでは、ライ・クーダーのボトルネック・ギターを満喫することができる。

PARIS,TEXAS Original motion picture soundtrack-Music by Ry Cooder(Warner Bros. 925 270-2)

9. 「アバウト・ア・ボーイ」

才能はあるけれど、可愛げのないヤツ、というバッドリー・ドロウン・ボーイに対する印象は、このラブリーなサウンドトラック・アルバムを聴くと覆される。“River-Sea-Ocean”における、軽やかなボサノヴァ・テイストのギターの響きなど、実にイイ感じ。映画は、マーカスという少年をバックアップすることで好い気になって、実は自分自身が一番救われているということに気付かないヒュー・グラントが可笑しかったが、母親と一緒に「やさしく歌って」を熱唱してしまう、イジメられっ子だったひとりの少年は、このシニカルなソングライターのハートをも氷解させたようだ。

Badly Drawn Boy / About A Boy Original Soundtrack (Twisted Nerve TNXL CD152)

10. 「ネネットとボニ」

映画の内容はまったく憶えていない。しかし、耳に残るはイギリスの個性派バンド、ティンダースティックスによるこのサントラ。彼らの2ndアルバムに収録されていた“My Sister”を素材として、映画音楽として再構築したものだが、普段はスチュアート・ステイプルズのヴォーカルのバックに控えめに添えられがちなバンド・アンサンブルの妙が味わえる。軽いジャズ・テイストとジャケット写真のウサギもナイスな掘り出しモノ。

Musique originale du film NENETTE et BONI par Tindersticks(This Way Up 524 300-1 LP)

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マーラー 交響曲第5番


最初に買ったクラシックのCDは、マーラーの交響曲第5番だった。おそらく、これまでに一番多く聴いてきた曲だと思う。全楽章通しで聴いたのも100回は下らないだろう。しかし、この作品が分かったためしがない。いや、「分かる」という言葉は不遜なのかもしれない。理解?把握?解読?・・・・・まあ、いい。要は自分のなかで、いまだにこの作品の好き嫌いがはっきりしないということだ。

この作品に対しての入り方が間違っていたのだろうか?

マーラー5番よく知られているように、この曲の第4楽章アダージェットは、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」に使われている。映画は、トーマス・マンの原作に比較的忠実な形で進行していくが、大きな相違点は、主人公のアシェンバハの設定が作家ではなく、映画では音楽家に置き換えらているところだろう。そしてアシェンバハのテーマ曲のように劇中何度も流れるのが、あのアダージェットなのだ。老境に差し掛かった芸術家の心境を表わすかのように、または水の都ヴェニスに迫り来るコレラの影を予感するかのように、あるいはこの作品でもって妻のアロマに求愛したマーラーと同じく、アシェンバハのタジオという美少年への想いを代弁するかのように。何度も何度も。

クラシックを聴こうと思い立ち、真っ先に思い浮かべたのが、あのアダージェットだった。
あの美しい映画で使われていた、あの美しい曲の全貌とはどんなものなのだろう?

不吉なトランペットのファンファーレに導かれて、葬送行進曲が始まる。

何なんだこれは?各楽章に緊密な関係性があまり感じられず、それぞれ独立した5つの管弦楽作品が続けて演奏されているように聴こえた。さすがに全編アダージェットのような音楽を期待していたわけではないが、それでも予想とは大きく異なり、面喰らってしまったのは事実だ。僕の聴き方がおかしいのだろうか?何か大切なものを聴き逃しているのだろうか?

以来、繰り返し何度もこの曲を聴いてきた。自分自身だけでなく、演奏者にも疑いの目を向けて、カラヤン、バーンスタイン、ブーレーズ、クーベリック、アバドと様々な指揮者の演奏に触れてみたりもした。その間に、マーラーは僕の最も好きな作曲家のひとりとなった。交響曲第2番、3番、そして9番。いずれ劣らぬ宝石。そして、5番からは距離を置くようになっていった。どっちつかずの感情に決着をつけようとしながら聴くのに少し疲れてしまっていた。

CD棚の奥に大きな疑問符だけが残る。

久しぶりに、マーラーの5番を聴くことになった。
サイモン・ラトルがベルリン・フィルの第6代音楽監督に就任してはじめての定期演奏会の模様を中心としたライヴ録音。少し引き気味に聴こえる録音のせいもあるのか、アタックでも耳に痛くない。気合は入っているのだろうけれど、とても滑らかで、穏やかなムードが全編を支配している。アダージェットも独立したものではなく、それまでの楽章を受けて、それらの美のエッセンスを抽出した形で、そこに存在しているかのように感じる。

いつもと同じマーラーの5番、それでいて、いつもとは少し違うマーラーの5番。
疑問が解けたわけではない。ただ、少しだけこの作品に近づけたような気がした。

『少年が、腰から手を放しながら遠くのほうを指し示して、希望に溢れた、際限のない世界の中に漂い浮かんでいるような気がした。すると、いつもと同じように、アシェンバハは立ち上がって、少年のあとを追おうとした。』

これからも、マーラーの5番を繰り返し聴いていこうと思う。あとを追いかけてみようと思う。
何度も、何度でも。


Gustav Mahler ・ Symphonie Nr.5 cis-moll / Berliner Philharmoniker ・ Simon Rattle (EMI Classics 7243 5 57385 2 3)

(2002.11.4)

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静寂への勧誘


アルヴォ・ペルトの「Kanon Pokajanen」を聴く。

アルヴォ・ペルトの音楽は、「癒し」や「祈り」といった言葉を使って紹介されることが多い。自分の好きな作品が十把一絡げにされて、単純な形容詞で片付けられてしまうのは何となく居心地が悪い。しかし、そういったありふれた言葉の裏には、ペルトの音楽について語ることの難しさが隠されているような気もする。

「Kanon Pokajanen」のCDは、ECMレーベルから出ているものだ。ペルトの代表作「Tabula Rasa」を録音したレコードが、ECM New Seriesの第一弾だったこともあって、ペルトとECMの縁は深い。昨年の「Orient & Occident」で、カタログはちょうど10枚を数え、世界初録音曲も多い。しかし何よりも、ECM New Seriesのテーマ、”most beautiful sound next to silence = 静寂の次に美しい音”を、優れて表現しているのがペルトの音楽であることが、両者を結び付けて考える人が多い理由なのかもしれない。もっとも、このコンセプトからすると、世界で最も美しい音楽は、ジョン・ケージの「4分33秒」になってしまうが。

「Kanon Pokajanen」は11のパートからなる、全体で80分を超える無伴奏合唱の大曲。人間の声と言葉のみによって構成されたこの作品は、しかし、聴く者の言葉を失わせてしまうような透明な美しさが全体を貫く。端正なハーモニーが、辺りの空気をほんの少しだけ震わせる。曲が終わって、やがて静寂が訪れても、それとは気付かずに、むしろそれも作品の一部であるかのように錯覚してしまう、静寂と隣り合わせの音楽。ペルトの音楽を聴いたあとは、自分の周りの風景がクリアになり、空気はクリーンになり、ざわめきが静まったように感じる。

ペルトの音楽について語ることは、やはり困難なことなのだろうか?そうかもしれない。そうじゃないのかもしれない。しかし、多くを語る必要はあまり感じられない。何より音楽自体が、聴き手を静寂へと誘っているのだから。

アナログレコードには、CDではカットされてしまう、人間には聴こえない音域まで収録されているために、音がより豊かに聴こえることがあるそうだ。ペルトもまた、静寂をその音楽に取り込むことによって、そんな豊かな響きを手にしたのかもしれない。

僕らに出来ることはただ一つ。口を閉じること。


Arvo Part ・ Kanon Pokajanen / Estonian Philharmonic Chamber Choir ・ Tonu Kaljuste (ECM 1654/55)

(2003.2.23)

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ディスク・レビュー


Prefab Sprout / Jordan: The Comeback (Columbia 467161 2)

ヨルダン:ザ・カムバック85年の2ndアルバム「Steve Mcqueen」が、最初に聴いた彼らのアルバムということもあって、「ロック100選」に選出したが、90年に発表されたこのアルバムもやはり素晴らしい。全19曲の大作でありながら、そういったアルバムに収録されがちな、訳の分からない実験的な作品や徒に長いだけの曲も無く(最長の曲でも4分17秒)、サンバやボレロ、そしてミュージカルといった様々な音楽的要素がすべてプリファブ流に昇華されていて、さながらポップの見本市のような佇まい。特にこれといった新規の要素は見当たらないが、それまでに彼らがやってきたことと、その時点の彼らに出来たことに忠実かつ誠実に作られた作品という印象を受ける。生楽器と機械音を巧みにブレンドしたスムーズなサウンドが実に心地好い。それに対し、多分に感情的なパディ・マクアルーンのヴォーカル・スタイルは時に軋轢を生むこともあるが、そのことがかろうじて彼らを「ロック・バンド」の範疇に留めているような気もする。アルバム全体としても良く出来ているが、特に9曲目のMoon Dogまでの流れは完璧で、文句のつけようがない。個人的にお気に入りなのは、We Let The Stars GoとOne of The Brokenの2曲。この後、彼らが新作を発表するまでに7年もかかったことをみれば、この作品が、プリファブ・スプラウトの集大成的アルバムと言っていいと思う。


Propaganda / A Secret Wish (ZTTIQ 3 LP)

鬼才プロデューサー、トレヴァー・ホーンらが主宰するZTTは、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドやアート・オブ・ノイズなどを輩出し、80年代の一時期を代表したレーベル。プロパガンダはそのZTTが第3弾アーティストとして契約した、男女混成の4人からなるドイツのユニット。重厚なビートと、恐らくフェアライトによるものと思われるストリングスの音色の絡みが狂おしくも美しい、画期的なデビュー・シングルDr.Mabuse(First Life)の印象が強烈で、それよりはポップ・フィールドに移行したこのアルバムを最初聴いたときには、少なからず違和感を憶えたが、今改めて聴き直してみると、もうどこかに行ってしまった個人的な思い入れとは関係なく、完成度の高いポップ・アルバムとして楽しむことができた。LPではA面にあたる、Dream Within A DreamからJewel / Duelまでの流れは、まるで映画のサントラのような雰囲気の統一があって聴き所となっている。それ以降は、むしろ個々の楽曲の完成度を重視した作りで、統一感はないがそれなりに聴かせてくれる。このアルバムに収録されたSorry for Laughingのカバーによって、オリジナルのジョセフkを知ることが出来たのも、個人的には懐かしい思い出だ。アルバムにも収められたDr.Mabuseはもちろん、他のポップ寄りの作品であっても、どことなく襟目の正しさを感じさせるところは、やはりドイツのバンド所以なのだろうか。


Scritti Politti / Cupid & Psyche 85 (TOSHIBA EMI 25VB-1028 LP)

85年の発表当時、特に日本で大騒ぎされたスクリッティ・ポリッティの2ndアルバム。今聴いても驚かされるのは、その素晴らしい録音。音数は決して多くはないのだが、ひとつひとつの音は研ぎ澄まされており、音の立ち上がりというか、キレの良さは特筆に値する。僕は当時のアナログ盤で聴いているのだが、現在のデジタル技術でリマスタリングされたCDで聴いたりすれば、更なるオーディオ的快楽が得られるものと思われる。もちろん高音質というだけではなく、音楽自体もハイクオリティなもの。1stの「Songs to Remember」にも見られたR&Bの白人的解釈を更に推し進めて、そこにヒップホップ的要素も加味した、数段進化した内容となっている。そして、そのサウンドの上に乗せられた、中心的人物であるグリーン・ガートサイドのヴォーカルの中性的というよりもむしろ無性的な(歌詞は性的なテーマを扱ったものが多いですが・・・)響きも、洗練のあまり、時にメカニカルな印象さえ与えてしまうサウンドとうまく溶け合って、心地好い音空間の一部を形成している。The Word Girl、Absolute、Hypnotizeといったシングル曲の出来はやはり抜群だが、明るく、撥ねるようなリズムが楽しいSmall Talkや、1stに収録されたFaithlessの85年ヴァージョンといった趣のA Little Knowledgeなど、聴き所は多い。アルバム前に発表されていた4枚のシングルがすべて収められたことから、シングル以上のものがないと一部で批判されたりもしていたが、余計な曲まで収録してアルバムの完成度を落とすようなことをしなかったのは、今となっては賢明な判断だったと言える。

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小さな革命


ウェーベルンの作品はどれも短いものばかり。

マーラーやブルックナーの交響曲が長大だったり、クセナキスの曲がうるさかったりするのと同じように、その点こそが、彼の音楽を他とは違う個性的なものにしている。

空調と音響の行き届いた部屋で、コーヒーでも飲みながら、ゆっくりと寛いで音楽に身を任せようか・・・・・などという聴き方は、ウェーベルンの音楽に対しては相応しくない。雑誌を2,3ページめくっているうちに、コーヒーを飲み終わらないうちに、別のことを考えているうちに、1曲が終わってしまうだろう。

シノーポリ指揮ドレスデン国立管弦楽団の演奏では、「管弦楽のための5つの小品」の第一曲は57秒。第二曲は37秒。一番長い第三曲でさえ1分47秒であり、全体でも5分程度にしかならない。「管弦楽のための変奏曲」の主題に至っては、たったの2小節!そして、曲も短ければ、音数も少ない。しかし、ミニマル・ミュージックのような印象はなく、考えてみたら、10分にも満たないような作品にフル・オーケストラを要するのだから、ミニマルどころか、ひどく不経済な音楽のように思えてくる。一点豪華主義ならぬ、一分豪華主義的音楽というか。

同じCDに収められている、作品番号を与えられていない初期の作品、「夏風の中で」を聴くと、まるでR・シュトラウスのような後期ロマン派の香り濃厚な楽曲であり、ここから無駄な音を省いて、切り詰めていくことによって、のちのウェーベルン独特の音楽が形成されていったことが分かる。

冗長な部分とは無縁だし、意味のない音などひとつもない。ながら聴きしているようでは、いくつもの音を聴き漏らすことになってしまうし、今流れているのが、どの曲のどの楽章なのかもすぐに見失ってしまうだろう(ウェーベルンのCDには大抵たくさんの作品が収められている)。結果、ウェーベルンの音楽と対峙する聴き手にはかなりの緊張感が要求されることになる。

多くの作曲家たちが、オーケストラの大音響を駆使することによって、聴衆の注意を喚起し、耳目を惹こうとしてきたのとは反対に、ウェーベルンは、ピアニッシモの連続であるその作品によって、音楽界に変革をもたらした。

それは、静かな音楽による小さな革命、とでも言うべきものなのかもしれない。


Anton Webern ・ Orchestral Works / Staatskapelle Dresden ・ Giuseppe Sinopoli (Warner Classics 0927 49832 2)

(2003.5.11)

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ディスク・レビュー2


Belle & Sebastian / Dear Catastrophe Waitress (TOSHIBA EMI TOCP-66220)

前作『Fold Your Hands Child, You Walk Like a Peasant』以来、さほど魅力的ではない2枚のシングルと1枚のサントラを経て、またイザベル・キャンベルの脱退とレコード会社移籍後の、2003年に発表された、ベル&セバスチャン5枚目のオリジナル・アルバム。

既にあらゆる所で指摘されている通り、彼らが変わったのは間違いない。しかし、それは決して突然変異というわけではなく、2000年のシングル「Legal Man」にもその萌芽を聴き取ることはできる。彼らが自身のパブリック・イメージに飽きつつあったのは明らかだろう。とはいっても、トレヴァー・ホーンがプロデューサーというのは、タチの悪い冗談にしか思えなかったのもまた事実。果たして出来上がったアルバムは、しかし劇的な変化がもたらされているのかといえばそうでもなく、バンドの中の変化を望む部分と、これまでの自分たちが築き上げてきたスタイルに対する未練とが奇妙に混在した、幾分分裂症ぎみの作品となっている。

ベルセバオープニングの逆セクハラ(?)を歌う「Step into My Office, Baby」は、そのイントロだけでバンドの変化を告げるに充分な意欲が伝わってくる。しかしその後、間髪入れず始まる、典型的かつ純粋なベルセバ・ソングであるタイトル曲を聴けば、これまでのファンにとっては、やはりこちらのほうが魅力的に聴こえてしまうのは仕方のないことだろう。「If She Wants Me」はスチュアート・マードックが敬愛するオレンジ・ジュースの(悪名高い)2ndアルバムを彷彿させるようなR&Bテイストが聴かれるが、ナルシスティックなエドウィン・コリンズよりも、マードックはずっと巧みであるし、弾むようなリズムが楽しい「I’m a Cuckoo」、そしてもっと思い切ったアレンジが施されていれば、パルプが歌ったとしてもおかしくないような「If You Find Yourself Caught in Love」などはこのアルバムのハイライトであるといえる。その一方、「Stay Loose」の場違いな陽気さは、このアルバム全体のイメージを曖昧なものに貶めてしまっている(この曲において、トレヴァー・ホーンの持ち味が最も発揮されているのも皮肉だ)。オープニングとエンディング曲をマードックがリード・ヴォーカルを他のメンバーに譲ってしまったことはこのアルバムの弱点のひとつだ。「You Don’t Send Me」から「Lord Anthony」にかけての、いつもながらのベルセバ節に合わせて歌うマードックが、ファンにとってのやはり魅力なのだから。

結論的には悪くはない。しかし、これまで以上に良いということもない。バンドが変化していくのは自然なことかもしれないが、ソングライターとしてもヴォーカリストとしても、他のメンバーがマードックより才能豊かだとはまるで思えない。スチュアート・マードックはバンドの独裁者となるべきなのだ。



Ride / Carnival Of Light (Sire 9362-45610-2)

ライドといえば、マイ・ブラディ・ヴァレンタインの洗礼を受けたシューゲイザーの一派であると見られがちだが、実際のところ、アルバム毎に方向性を変化させており、紆余曲折のうちに、最後まで確固としたスタイルに辿り着くことなく終焉を迎えてしまったバンドだといえるのかもしれない。典型的なシューゲイザー・サウンドを聴くことができる初期の4枚のEPや1stアルバム、そこにプログレ的な展開が加えられた(ただし、彼らはレディオヘッドほど器用なバンドではなかった)2nd『Going Blank Again』を経て、1994年に発表されたこのアルバムでは、前2作を覆っていた轟音ギターは影を潜め、タンピューラーといわれる、シタールにも似た音を出すインドの楽器をフィーチャーした、サイケデリックな60’S的要素が色濃く出た内容となっている。

注目すべきは、これまでクレジットを分けあってきた彼らが、今作を契機にそれぞれの作曲者名を明記するようになった点で、これによりライドの中心人物はマーク・ガードナーではなく、アンディ・ベルであることが明らかになるとともに、一枚岩の結束が崩壊しつつあることも露呈することになってしまった。ただ、それは結果論にしかすぎないし、また、2枚の先行シングル(「Birdman」と、クリエイションのカバー「How Does It Feel to Feel?」)が平凡な出来であったとはいえ、アルバム自体は彼らの創作のピークを記録したベストの一枚だといっていい。

ライド前述のタンピューラーの響きに加え、ジョン・ロードのハモンド・オルガンが華を添えるオープニング・ナンバー「Moonlight Medicine」や、バーズのようなキラキラとしたギターとコーラスが印象的な「1000 Miles」は、ともにガードナーのペンによるものだが、アルバム前半の聴きものだといえるだろう。しかし何といってもアルバムの白眉だといえるのは、キャッチーなリフが印象的な「Magical Spring」、サイケデリックなインスト曲「Rolling Thunder」、そしてローリング・ストーンズの「You Can't Always Get What You Want」の曲構成をそのまま引用した「I don’t Know Where It Comes From」といった、後半に集められたアンディ・ベルの作品であり、他のメンバーを差し置いて、彼だけがソングライターとしてのネクスト・レベルへと進みつつあったことが分かる。

それだけに現在の、世界一有名ではあるが、個人的にさほど魅力を感じないバンドの、スポットライトの当たらない地味なベーシスト(ライドではリード・ギタリストであったのに!)の地位に甘んじているのは残念だと言うしかない。考えてみれば、ライドではマーク・ガードナー、ハリケーン#1ではアレックス・ロウ、そして現在ではマンチェスター出身の極悪兄弟、という具合に、彼の傍らには常にフロントマン的存在がいた。ソングライターであり、リード・ギタリストであり、リード・ヴォーカルを取ることさえできるアンディ・ベルに欠けているのは、フロントマンになることができる勇気、ただそれだけなのかもしれない。



U2 / The Unforgettable Fire (POLYSTAR P35D-20002)

80年代半ばのU2は、セールス的にはともかく、バンドの評価としてはそれほど芳しいものではなかった。スミス、ニュー・オーダー、エコー&ザ・バニーメンなどには劣る、と思われていたのだ。そればかりか、何かと批判や嘲笑の対象にもなりやすかった。音楽的なことに限らず、ステージ上でやたら高い所に登りたがるボノのパフォーマンスや、エッジの頭に巻かれたバンダナについてまでとやかく言われたものだ。

1984年に発表されたこのアルバムは、彼らの転機になった作品とみなされており、その大きな理由としては、ブライアン・イーノ(とダニエル・ラノワ)をプロデューサーとして迎えている点が挙げられるだろう。当時イーノがU2をプロデュースと聞いて、不安を感じたファンは多かった。あまりにミス・マッチな組み合わせに思えたのだ。実際に完成された作品を聴いてみても、それまでの猪突猛進型のU2とは違う音像に、むしろ戸惑いの声が多かったように記憶する。しかし、いまや初期の3作がそれ以降の作品より優れていると考えるファンなどごく僅かにしかすぎない。このアルバムが突破口となったことは、以降の彼らの歩みをみれば明らかなことだ。

ファースト・シングルとなった「Pride (in the name of love)」こそ、それ以前のU2とさほど変わり映えのしない典型的なロック・ソングだが、このアルバムではむしろ異色であり、作品全体のトーンを決定付けているのは、ストリングス(といっても生楽器ではなく、フェアライトによるものだろうが)が導入された「The Unforgettable Fire」、印税目当ての曲数稼ぎかと思わせるような奇妙なインスト・ナンバー「4th of July」、珍しくルーズなリズム・セクションが逆に新鮮に聴こえる「Elvis Presley and America」、などである。そして「Bad」は、折衷主義的な部分も見受けられるものの、間違いなくこのアルバムのハイライト・ナンバーだといえる。サビでは高らかにシャウトするお馴染みのボノのヴォーカル・スタイルが聴けるが(それが魅力的であることもまた否定できない)、そこに至るまでの長い展開こそが、最後に大きなカタルシスをもたらす要因となっている。

また、「4th of July」や「Elvis Presley and America」といった、タイトルだけで一目瞭然のものから、マーティン・ルーサー・キングに捧げられた「Pride」(『Rattle and Hum』に収められたライブ・ヴァージョンはさらに感動的)や「MLK」まで、このアルバムの歌詞には、アメリカをテーマにしたものが多く見られるのも特徴のひとつだといえる。ボノの書く歌詞は、主題は明確であっても、真意が図りかねるものが多い、という個人的な見解はひとまず置いておいて、既にこの時点で、バンドはアメリカに(様々な意味で)目を向けていたという事実は興味深い。

そして、2005年になった現在、U2を笑う者など何処にもいなくなった。目の敵にするにも、彼らは余りにもビッグな存在になった。それだけではない。新作『How To Dismantle an Atomic Bomb』を聴けば、ホワイト・ストライプスやリバティーンズなどの、現在の最先鋭のバンドと並べたとしても、何ら遜色が無いことも分かるだろう。しかし、その道は決して平坦なものだったわけではない(ペット・ショップ・ボーイズが皮肉たっぷりにカバーした「Where The Streets Have No Name」から、さらに6年も遅れて制作された、硬直化した無残なダンス・アルバム『Pop』などはその一例)。今のU2の音楽を楽しむと同時に、それなりに歴史を重ねてきた彼らに対する多角的なアプローチのひとつとして、こうして過去のカタログを引っ張り出してくるのも悪くはないだろう。

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ディスク・レビュー3


The Police / Synchronicity (A&M 393 735-2)

先鋭的かつ急進的なものを好むロック・ファンにとっては、現在のスティングにロック的な感興を見出すのは困難なことだろう。ジャズ・テイストの加わった、クールなアダルト・コンテンポラリーといえば聞こえは良いが、要はリッチになって、すっかり落ち着いてしまったベテラン・ミュージシャンの、気の抜けた退屈な音楽だと言えなくもない。しかしだからといって、本当に価値のあるものまで見逃してしまうのは惜しいことだ。1983年にリリースされたこのアルバムは、ポリスにとって5枚目に当たるアルバムで、この後彼らは活動停止してしまうわけだが、セールス的にも音楽的にも、有終の美を飾るに相応しい充実したものになっている。

当時のバンドの中心はあくまでも、アルバムに収録された全10曲(現行のCDに収録されている11曲目「Murder by Numbers」はオリジナルLPには含まれていなかった)の内8曲までを手掛けたスティングであり、実際のところ、ポリスは彼のワンマン・バンドだと言ってよかった。このアルバムの(数少ない)ウィークポイントにしても、強いて挙げるなら、それはスティング以外のメンバーが作曲に携わった2曲にあるのだから。スティングによる破壊的な一面を垣間見せる「Synchronicity2」に対抗してか、アンディ・サマーズは、精神分裂病患者のスケッチとでも形容したくなるような「Mother」を書いているが、残念ながらこれはやりすぎであろう。スティングのリード・ベースに、ギターとドラムが何とか着いていく図式が展開される「O My God」のように、やはりここはサマーズとスチュアート・コープランドの両名にはバックに控えておいてもらう方が賢明なようだ。スティングが書いた作品が並ぶ、LPではB面にあたる(やはりサマーズ作の「Murder by Numbers」は蛇足にしかすぎない)「Every Breath You Take」からラスト「Tea in The Sahara」までがアルバムの最も優れた部分であり、その内の3曲は全米トップ10ヒットとなったこと、またMTV最盛期のバブリーな80年代において、最もダークなヒット・ソング(タイトルからして「King of Pain」である)であったことは記憶されてもいい。また、アフリカン・リズムが導入された「Walking in Your Footsteps」や「Miss Gradenko」などは、いかにも当時を偲ばせるものだが、同じく1983年に発表されたアルバム、例えばマイケル・ジャクソンの『スリラー』やデビッド・ボウイの『レッツ・ダンス』などと較べてみれば、ポリスのこの作品のほうが、より時の試練に耐えたということが分かるだろう。

トリオ編成が故に、どうしたところで隙間の多いサウンドにならざるを得ないのは仕方のないところだが、間隙をぬって効果的に配されたシンセサイザーと、何よりここで聴くことのできる3人のメンバーの間に横たわるテンションの高さによって、物理的なものを超えて聴く者に訴えかけてくる。ここで思い当たるのが、バンドのほとんどの曲を手掛けて、音楽的なリーダーであった人物が、バンドを辞めソロになって、やっと軋轢や障壁から解放されたところで、更なる飛躍を遂げるかと思いきや、その逆にバンド時代に全く及ばない程度の作品しか生み出せないでいるケース、デヴィッド・バーン、ジョニー・マー、バーナード・バトラー、ジョン・スクワイアなどのことである。ここにはバンドという集合体が生み出す化学反応の不思議を感じずにはいられない。かつて「Every Little Thing She Does Is Magic」と歌ったスティングだが、彼らと同じように、その魔法もまたポリスの終焉とともに失われてしまったのだろうか。



Teenage Fanclub / Howdy! (Columbia 500622 2)

ティーンエイジ・ファンクラブは(次々にドラマーをクビにする以外は)変化を好まないバンドとして知られている。近年の彼らは徐々にアルバム毎のリリース間隔が長くなりつつあるが、クレジットなど見なくても曲を聴くだけで、それが誰によって作曲されたものなのか(ティーンエイジ・ファンクラブには3人のソングライターが在籍する)を瞬時に判断出来るような熱心なファンであっても、むしろ彼らの変わらなさを確認しては安心するのだ。

ハウディ!2000年に発表されたこのアルバムは、そんな彼らにしては珍しく変化の兆候がはっきりと認められる作品だといえる。それは、毎度おなじみのドラマーの交代やレーベル移籍(これも長年所属したクリエーション・レコーズそのものが消滅してしまったので、仕方が無いことなのだが)といった彼らを取り巻く環境面に留まらず、音楽的にも、それまでサウンドの中核を担ってきたギターの比重が減って、キーボードが前面に出た音作りに変化しているのだ。特にジェラルド・ラヴの作品には、彼がベーシストだということもあるのか、その傾向が顕著であり、「The Town and The City」ではキーボード(ハモンド・オルガン?)に加え、ビブラフォンやブラスまで導入されており、これまでになかった小洒落た感じのポップ・ソングに仕上がっている。とはいえ、そのセンスは都会的というより、彼らの出身地であるグラスゴー辺りの地方都市的なものではあるのだが、それもまたファンにとっては憎めない部分ではあるのだろう。また、メンバーのノーマン・ブレイク、ジェラルド・ラヴ、レイモンド・マッギンリーの3人それぞれがソングライターであるのみならず、リード・ヴォーカルも取れるという強みを生かして、「I Need Direction」、「Straight & Narrow」などで聴くことのできる、バーズ顔負けの美しいコーラス・ワークは、最近の彼らのトレード・マークとなりつつあるようだ。とはいえ、キーボードをフューチャーした表面的なアレンジの変化を取っ払ってみれば、前作にあたる『Songs From Northern Britain』(1997)と、実のところ、それほど異なったことをやっているというわけでもないのだ。さらに遡ってみて、1stアルバム『A Catholic Education』(1990)と較べたとしても、やはり同じようなことが言える。当時のシーンを反映してグランジ・ギターに覆われてはいるものの、そのメロディ・センスに関しては(現在と較べると巧拙の差はあっても)不変のものが感じられる。そして、それこそがファンがいまだに彼らに求め続け、かつ期待を裏切られることのないものなのだろう。

このアルバムに収録されている全12曲は、3人が4曲ずつ分けあっているだけではなく、曲順もジェラルド、レイモンド、ノーマンの順に最後まできっちりと並べられてある。<両雄並び立たず>が当たり前のロック界において(彼らは3人だが)、ティーンエイジ・ファンクラブほど、長期に渡って民主主義政権が持続されているバンドというのもまた珍しいことかもしれない。



Primal Scream / XTRMNTR (Creation 496525 2)

1994年のレトロなロック・アルバム『Give Out But Don't Give Up』が本国イギリスで酷評(皮肉にも、日本ではこの作品によって彼らの知名度は上がったのだが)されたことによって、以後のプライマル・スクリームはあるジレンマを抱えることになった。予想外の大きな反発に直面して、衝動にまかせたストレートなロックンロールをプレイすることにためらいを持つようになってしまったのだ。続く97年に発表された『Vanishing Point』は、『Screamadelica』の頃に回帰したようなダンス/エロクトロニカ系の作品と、「Rocks」の二番煎じである「Medication」のような楽曲とが同居した、妥協の産物のようなアルバムではあったが、彼らにとって(幸か不幸か)再び賞賛を勝ち得るにいたった。

これらの2作品を通して彼らが学んだ教訓が、6作目にあたる『XTRMNTR』(2000年)において、ひとつの方法論を導き出す契機となる。実のところ、プライマル・スクリームは、世間で言われているほどには引き出しの多いバンドではない。このアルバムでは、これまでは曲によって振り分けられていた、ロックンロールとエレクトロニカ的な要素をひとつに融合する試みがなされた結果、これまでになかった推進力が音楽に加わって、『Screamadelica』以来の、二度目のピークを彼らにもたらすことになった。『Screamadelica』にあった、エクスタシーによる恍惚とした祝祭感に取って代わって、この『XTRMNTR』全編を貫くのは、禁断症状後の覚醒であり、ヨーロッパにおけるネオナチ台頭に対するプロテクト・ソング「Swastika Eyes」をはじめとして、ドラッグまみれの桃源郷から、実社会へと帰還したボビー・ギレスピーの憤懣は、ハイテンションな音楽として還元されて、それがアルバムの最後まで途切れることなく持続されていく。そのことによってまた、「Pills」や「Insect Royalty」といった、アルバムの中で、やや貧弱に感じられる曲を補う役目も果たしているのだ。

エクスターミネーターかつて「I'm Losing More Than I'll Ever Have」をリミックスして、「Loaded」に生まれ変わらせたように、自身の楽曲を有効利用することに長けている彼らは、このアルバムにおいても、前作に収録されていた「If They Move, Kill ’Em」を、マイ・ブラディ・ヴァレンタインのケヴィン・シールズにリミックスを依頼したヴァージョンを再度アルバムに収めるだけに飽きたらず、そのリフを引用して、不穏なオープニング・ナンバー「Kill All Hippies」に発展させることにも成功している。さらに、「Swastika Eyes」は2ヴァージョン収録されているとなれば、使い回しにも程がある、と言いたくなるものだが、そのどれもが素晴らしい出来であるだけに、それ以上に文句を付けようとは誰も思わないだろう。嬉しいことに、聴き所は他にも用意されている。ケヴィン・シールズによる、ディストーションのかかりまくったギターがフューチャーされた「Accelerator」には興奮を憶えずにはいられないであろうし、ノイジーでサイケデリックな空間にクラフトワーク風のコーラスが被さる「Shoot Speed / Kill Light」(これもケヴィン・シールズがプロデュースしている)によって、アルバムは光に満ちた歓喜のうちに締めくくられる。

アルバム毎に音を変化させていくというイメージのあるプライマル・スクリームだが、よくよく聴いてみると、その本質的な部分ではさほど変わっているというわけではないのだ。その変化は例えるなら、長く伸ばしたり、短くカットしたりして、めまぐるしく変わるボビー・ギレスピーの髪型程度のものである。しかし世間では、髪型をしょっちゅう変える人間のほうが少数派なのはご存知のとおり。今作では、デヴィッド・ホルムス、エイドリアン・シャーウッド、ケミカル・ブラザーズ、ケヴィン・シールズといったプロデューサー/ミキサー陣が、ゲスト参加という枠を超えて、それぞれの個性を十二分に発揮した仕事をしているのが特筆されるが、外部の人間に自分たちの作品を差し出して、それを好きなように料理してもらっても構わないという、そのフレキシブルな姿勢こそが、今日までのプライマル・スクリームを支えてきたものなのかもしれない。つくづく自意識過剰なバンドだと思うが、ロックンロールへの未練はいまだに捨てきれないでもいるようだ。

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ディスク・レビュー4


The Strokes / Room On Fire (RCA 82876 55497-2)

時代を画した決定的な作品のあと、バンドはどう対処していくのか?ストーン・ローゼズは、2ndアルバムを出すのに5年以上もかかってしまった。カート・コバーンは、自暴自棄なアルバム『In Utero』を発表した後に、遂には自らの命を絶つことになってしまった。マイ・ブラディ・ヴァレンタインにいたっては、『Loveless』以降、何一つ新しい音源を世に出せずにいる。

ルーム・オン・ファイアロックンロール・リバイバルの牽引者と見なされ、デビュー・アルバム『Is This It』が、世界中で多くの賞賛(NMEでは2001年のベスト・アルバムに輝いただけではなく、2003年にはすべての年代を通じてのベスト・アルバム7位にも選出されている)を勝ち得ることになったストロークスにも、おそらく上記のバンドと同じような大きなプレッシャーがのしかかっていたに違いない。しかし、ストロークスは賢明だった(ただ、あまりにスマートすぎて、彼らが決してロックンロール的な存在でないことも同時に露呈してしまってはいるが)。前作から2年余りという、期待が過度に膨れ上がらない程度のインターバルを置いて、2003年に発表された『Room On Fire』は、前作以上にポップで(曲によってはブロンディを想起させるほど)、軽やかな響きと色彩感に満ちており、周囲のプレッシャーを撥ね退けるというよりは、さらりとかわすようなアルバムに仕上がっている。彼らが周囲の期待のすべてを背負って、そこを正面突破してはくれなかったという意味では、期待外れの部分も無きにしもあらずかもしれないが、前作の良いところを引き継ぎつつも、少しばかり軌道修正したこの作品によって、来るべき3rdアルバムへと聴衆の関心を引き伸ばすことに成功したのは確かであり、メンバーがそのバンド運営において建設的な判断を下したことに対して批判するのはお門違いであろう。彼らはリバティーンズではないのだから。もはやストロークスの音楽にロックンロール的な忘我の境地のようなものを感じることはほとんど無くなってしまった。むしろ、冷静にシーンを俯瞰して、自分たちの能力を最大限に生かした仕事をやり遂げようとする、地に足の着いた視点こそが彼らを特別な存在にしているのだろう。

『Is This It』の唯一の欠点ともいえた、オープニング曲のインパクトの無さは、今作においては、特徴的なイントロを伴った「What Ever Happened?」によって見事に払拭されている。続く「Reptilia」はこのアルバム中数少ないストレートなロック・ナンバーで、多くのファンが彼らに求めているものに合致するが、彼ら自身にはそれほど執着はないようだ。「Automatic Stop」、「Between Love And Hate」、「Under Control」といったスロー・ナンバーが醸し出すメロウな雰囲気と、ジュリアン・カサブランカスのプラスティックな質感を持ったヴォーカルとが、時にハーモニーを、時にアンバランスな軋みを生みながら、魅惑的な音空間を生み出していく。これらの楽曲を次作以降どう生かしていくかが課題でもあるだろう。「12.51」は、シングル曲としてはインパクトに欠けるが、所謂サビメロが存在しない構造になっていることに気がつけば、それなりに魅力あるものに聴こえてくる。そして、「The Way It Is」と「The End Has No End」の2曲が併せ持つ、燃えているのか、醒めているのかよく分からないような、1stアルバムの雰囲気を引き継いだ楽曲は、やはりファンには好まれるのだろうし、このアルバムの後半のハイライト部分となっていることにも疑いようがないだろう。

だから結論としては、結論を出すには早すぎる、ということになる。カサブランカスは「I Can't Win」の中で、<僕に勝ち目はないのかな>と弱音を吐く一方で、エンディングでは、<そう、僕は何かを待っている/落ち着いて/そんなくだらないことは要らない/よく頑張った、という言葉は好きじゃない/そのままでいて/すぐに戻るから>と力強く宣言している。彼らにはもうしばらくの猶予を与えよう。



Bloc Party / Silent Alarm (Wichita WEBB075CD)

デビュー以来、5枚のシングルという充分すぎるくらいのウォーミングアップを経て、遂に発表されたブロック・パーティーの1stアルバムは、常に新しい才能を求め続ける、貪欲な音楽ファンの肥えた耳でさえ満足させるような素晴らしい仕上がりとなった。何より特筆すべきは、彼らの音楽が、レディオヘッド、オアシス、リバティーンズのいずれにも似ていないことであり、これは最近のイギリスから登場する新人バンドのほとんどが、先述の3バンドとの類似性を指摘しなければ、その存在証明さえも怪しくなることを思えば、極めて異例のことのように思われる。彼らがデモ・テープを渡したことがデビューのきっかけになったと言われる、フランツ・フェルディナンドでさえ似通った点は(幸いなことに)さほど見当たらない。とはいえ、彼らが極めてオリジナルな存在であると言うつもりは毛頭無い。その音楽は明らかにニュー・ウェイヴ的な下敷きを感じさせるものだし、オフィシャル・サイトでメンバーがフェイバリットとして挙げている、トーキングヘッズ、スエード、レディオヘッド、ザ・スミス、ジョイ・ディヴィジョンなどの音像を彷彿とさせる瞬間というのも確かに存在する。しかし、それらの内、どれかひとつのバンドだけを取り上げて比較することはおそらくは難しいはずだ。彼らの強みは、そういった偉大な先人達の仕事を踏まえていながらも、ブロック・パーティーならでは、という音を作り上げつつあることにあるのだろう。

オープニングの「Like Eating Glass」は、ロンドンを拠点として活動する、この4人組の魅力を紹介するのにうってつけの楽曲だ。激しいカッティングで絡み合いながらも、時に幻想的なフレーズを繰り出す2本のギターと、それらに負けず自己主張するベースと(やたら手数の多い)ドラムスとが一丸となって、清々しい疾走感を伴いながら曲間を駆け抜けていく。ケリー・オケレケが<奇跡を望んでいるのかい?>と歌う、2曲目の「Helicopter」を聴き終えるころには、これはまさしく奇跡的なデビュー作であるということが確信に変わっていることだろう。この2曲をはじめ、前半はアップテンポなナンバーが多くを占めているが、アルバムの後半に進んで行けば、さらに彼らの多角的な面も垣間見ることができる。このアルバム随一の高速ナンバーである「Luno」(このアルバムからもう一枚シングルが生まれるとすれば、この曲だろう)は、ライヴでダイビングするオーディエンスの姿が目に浮かぶようであるし、<疾走する悲しみ>という、どこかで聞いたようなフレーズを持ち出したくなるような、叙情的な雰囲気の「This Modern Love」や、幾重にも重ねられた美しいギターのフレーズが、プリズムから放たれる光を思わせる「So Here We Are」などを聴けば、このバンドは他にも隠された引き出しを持っているのではないかと思わされる。抑圧された憂鬱を感じさせるエンディング曲に、「Compliments(賛辞)」という、いささか大仰なタイトルが付いているのも、決して伊達ではないはずだ。

この作品が、2005年を代表するアルバムのひとつになることはおそらく間違いないだろうが、いくらか醒めた見方をすれば、『Ok Computer』や『(What’s The Story) Morning Glory?』といったアルバムに比肩するには、「Paranoid Android」や「Wonderwall」のような決定的な楽曲に欠けているのも(残念ながら)事実ではある。しかし、この作品に見られる、そういったいくらかの欠点でさえ、逆に言えば、実はまだまだ発展途上の最中であるブロック・パーティーの潜在能力の証明であり、彼らの明るい未来を約束しているようにも思えてくる。我々は<奇跡を望んでいる>のだから。



The Sleepy Jackson / Lovers (Virgin 7243 5 90559 2 3)

オバサンパーマに口髭、そして中途半端なメイクを施したルックスで、毎回犬を抱えながらジャケットに登場するフロントマンのルーク・スティールの姿、あるいは、レトロなスタイルと大袈裟な身振りでメンバーが演奏する「Vampire Racecourse」のビデオを見れば、スリーピー・ジャクソンを、ヴァインズ、ダットサンズ、ジェットといった、一連のオージー・バンドと同系列に並べたくなるかもしれない。しかし、この西オーストラリア州のパース出身の3人組には、より複雑で多層的な魅力が感じられるし、どこまでが冗談であり、はたまた計算されたものなのかが分かりづらいとはいえ、その才能が並外れたものであることは、このレコードを聴けば明らかだ。

ラヴァーズ女声コーラスを大胆にフューチャーした「Good Dancers」によってアルバムは幕を開ける。イントロのジョージ・ハリスン風ボトルネック・ギターや、間奏の中華風味のメロディーもまた印象的なこの曲において、リード・ヴォーカリストであるはずのルーク・スティールの声は、ブリッジ部分を除けば、ほとんど聴こえてはこない。バンドの自己紹介ともなるべき、1stアルバムのオープニング曲としてはいささか異色ではあるが、続いての、比較的ストレートなロック・ソングである「Vampire Racecourse」などに較べれば、実は遥かに優れてバンドのカラーを表わした作品だともいえる(ちなみに、精神病院の中の娯楽室における1シーンと、僅かなカット割のみで撮られたPVも秀逸で、現在バンドのオフィシャルHPで見ることができるので、興味ある方は参照されたい)。この曲に限らず、「Rain Falls for Wind」、「Tell the Girls That I'm Not Hangin Out」、「Old Dirt Farmer」といった曲でも、女声コーラスは大幅に導入されており、時にシニカルな印象さえ受けるルーク・スティールのヴォーカルとの対比により、サビのコーラス部分が鮮やかに際立ってくる効果をもたらす。なかでも、日本語の語りとコーラス(“何にも怖くないから/一緒に歩いていこう/どこまでも”)までもが飛び出す「Don't You Know」は、そのスケール感と曲自体が持つ美しさにおいて、アルバム中最大の聴きものだといえる。ジャケットに写るたくさんの女性の姿や、『恋人たち(愛人たち?)』と名付けられたアルバム・タイトルに留まらず、音楽的にみても、スティールにとって女性の存在は無くてはならないもののようだ。

先述した、他のオーストラリアのバンドたちが、旧態依然とした、いにしえのロックへの無邪気なまでの執着によって、最近の英米のアーティストにはみられなくなった類のパワーを生み出しているのに較べれば、スリーピー・ジャクソンの音楽は、例えば「Acid in My Heart」や「Old Dirt Farmer」といった、カントリー・テイストの感じられる楽曲であっても、スタイルへの依存性といったようなものは極めて薄いように思われる。現代的なきちんとした批評性がその音楽からは感じられるのだ。これが見事なデビュー・アルバムであることには疑いようがないが、ヴァインズやダットサンズが、<2ndアルバム・シンドローム>に巻き込まれて、芳しい結果を出せずにいるだけに、スリーピー・ジャクソンに関しては、今後にもかかる期待は大きい。彼らのHPに掲載されているバイオグラフィーの中にある、“『Lovers』は単なる始まりにしか過ぎない” というルーク・スティールの言葉を信じよう。


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ディスク・レビュー5


Japan / Gentlemen Take Polaroids (Virgin 7243 5 91017 2 9)

時の利を得ることは、ポップ・バンドにとって意外と重要なことであったりする。パンク旋風吹き荒れる1978年にデビューし、ニュー・ロマンティック・ムーヴメントが始まる直前の1982年に解散したジャパンにとっては、何もかもがタイミングの悪いものだった(逆に、彼らが唯一成功を収めた国である日本においては、彼らの出現はちょうど良かったともいえる。当時の日本で人気があったのは、相変わらずクイーンであり、アバであったのだから)。グラム・ロックの亜流にすぎないといわれ、まともに取り扱ってさえもらえなかった本国イギリスで、彼らが商業的、そして批評的にもやっと成功を収めるのは、1981年に『Tin Drum』が発表されて後のことであるが、(またしても)タイミングの悪いことに、その時すでにバンドは解散を決意していたのである。しかし、タイミングの問題は、時の経過によって解決されることもある。ジャパンのアルバムがCDのカタログから漏れたことはないし、2003年から2004年にかけては、彼らのすべてのアルバムがリマスターされ、新たに登場することになった。もはや彼らを時代性や、そのルックスで批判しようとする者はいない。もしかすると、ジャパン時代を苦々しく思っているのは、今ではデヴィッド・シルヴィアンその人だけなのかもしれない。

孤独な影1980年に発表された、ジャパンにとって4枚目にあたるこの作品は、彼らがVirgin Recordsに移籍して初めてとなるアルバムであり、彼らが自身のスタイルを確立した『Quiet Life』と、それを極限まで突き詰めてみせた『Tin Drum』との間に位置する過渡期的な作品と見なされることもあるが、『Tin Drum』の唐突なオリエンタリズムに違和感を憶える者にとっては、彼らのノーブルなヨーロピアン嗜好が最も発揮されたものとして偏愛する向きも多いことだろう。オープニングの「Gentlemen Take Polaroids」は、まさにそんな彼らのこの時期ならではの魅力が凝縮された楽曲であり、 サビにおいて、“They fall in love”と繰り返すシルヴィアンが、2回目の“love”を長く引き伸ばして歌う瞬間のえもいわれぬ感覚は何ものにも代え難い。一方「Burning Bridges」は、明らかにデヴィッド・ボウイの『Low』と『Heroes』の影響下にあり、その後のシルヴィアンのソロ作品にも通じる要素が垣間見られるが、さほど成功しているようには思えない。それよりはむしろ、シルヴィアンの粘着性の強いヴォーカルと、ミック・カーンの(最近ではすっかりお目にかかれなくなってしまった)フラットレス・ベース(と申し訳程度のサックス)が蠢く「My New Career」や「Methods of Dance」といった楽曲における、歪なファンクネスのほうに軍配は上がるだろう。また、マーヴィン・ゲイのカヴァーである「Ain't That Peculiar」をはじめ、アフリカン・ビートの導入がこのアルバムのひとつの特徴であり、いかにも当時を偲ばせるものだが、これも初期の彼らの奇抜なメイクや、『Tin Drum』における中華テイストと同様、そこばかりに目(と耳)がいってしまうと、本質的な部分を聴き逃してしまうことになるという厄介な問題を抱えている。そういった意味でも、楽曲自体が持つ美しさが何よりも雄弁である「Nightporter」が本作のハイライトといっていいのかもしれない。続くエンディング曲の「Taking Islands in Africa」は、そのテクノ寄りの音像が、ややアルバムから浮いてしまってはいるが、シルヴィアンと坂本龍一との初のコラボレーションであり、現在に至るまでの、彼らの盟友関係の開始を告げる、(良くも悪くも)重要な位置を占める楽曲ではある。

そう、ジャパンを解散した後に、シルヴィアンがコラボレーションしたのは坂本龍一であり、ホルガー・チューカイやロバート・フィリップであった。これらの知的イメージで売る、ベテラン・ミュージシャンとの交流によって得られたものは決して少なくはなかっただろうが、残念ながら失われたものも非常に大きかった。ポップ・スターとして、誰もが羨むような生来の資質を兼ね備えていながら、デヴィッド・シルヴィアンは結局それを放棄してしまうことになったのである。ジャパン時代に受けた冷遇のことを思うと、彼の気持ちも分からないではないが、彼の間違いはポップ・ミュージックを一段低い所にあるものとして見なしてしまったことにある。ソロになってからの彼は、ジャパン時代以上に刺激的な作品を生み出しているとはとても言い難いのだから。『Gentlemen Take Polaroids』は見事なポップ・アルバムであり、皮肉なことに、シルヴィアンがソロで追求し続けている、しかつめらしい音楽よりも、ずっと時の経過にも耐えているのだ。



Brian Wilson / SMiLE (Nonsuch 7559-79846-2)

1967年に未完に終わったアルバムを、37年後の2004年にもなって、全曲ニュー・レコーディングを施し、再度完成を試みようとすることは、あるいは正気の沙汰であるとは思えないかもしれない。しかし、昔も今もブライアン・ウィルソンが<普通>であったことなどありはしなかった。魑魅魍魎としたロック界の中にあっても、数々の奇行にかけては人後に落ちないブライアンが(奇行だけではなく、その才能においても)いまだ健在であるという事実は特筆に値することだ。とはいえ、この作品の登場に関しては不安材料も多かった。年老いたブライアンからは、かつての輝かしいハイトーン・ヴォイスはすっかり失われてしまっていたし、ソロになってからのアルバムに顕著な、安っぽいシンセ・サウンドによって、あろうことか『SMiLE』が覆われているのではないかとも危惧されたのだ。

そうして、遂に日の目を見ることになった2004年版『SMiLE』は、手薬煉引いて待っていた意地悪な批評家やリスナーの大方の予想を裏切り、堅実なプロダクションを伴った、極めて真っ当な作品として、我々の前にその全貌を現した。驚くべきことは、『Good Vibrations』ボックス・セットを持っている者にとっては、この『SMiLE』を聴いても、驚くような部分はほとんど見当たらない、ということである。つまり、『Smiley Smile』以降のビーチ・ボーイズのアルバムにおいて小出しに紹介されてきた曲や、『Good Vibrations』ボックスで聴くことのできた、『SMiLE』の断片などを組み合わせて、デジタル・リマスターを施したようなサウンドなのである。2004年という時代性を感じさせるのは、すっかり様変わりしてしまったブライアンの声だけ、というのは皮肉だとしか言いようがない。そして、ひとつの疑問が浮かぶ。『SMiLE』を新たにレコーディングする必要はあったのか、と。予想に反するかもしれないが、答えはイエス、なのだ。ファンやマニアといった人種は、アーティストとあたかも運命共同体であるかのように思いがちである。彼らに新しい『SMiLE』が必要であったのかどうかは分からない。しかし、ブライアンにとっては、間違いなくこのアルバムは必要不可欠なものであったのであり、37年ものあいだ、彼の強迫観念ともなっていた『SMiLE』に決着をつけるには、彼自身によって新たにレコーディングし直すことにも確かに意味があったのだ。1995年にドン・ウォズによって制作された、ブライアンに関するドキュメンタリー・フィルム『I Just Wasn’t Made For These Times』の中の、ブラザーレコード(ビーチ・ボーイズが設立したレコード会社)の代表であったデビッド・アンダールによるコメントが思い出される−−−「彼を苦しませている原因というのは、『SMiLE』の未完成だ。栄光も得られず、頂点にも達さなかったんだからね」−−−

今回の『SMiLE』に対して、ローリング・ストーン誌は最高評価にあたる5つ星を与え、グラミーでは「ベスト・ロック・インストゥルメンタル・パフォーマンス」(『SMiLE』収録の「Mrs. O'Leary's Cow」に対して)を受賞した。果たして、ブライアンは栄光を勝ち得たのだろうか?我々はオリジナル『SMiLE』の断片となる音源をあまりに何度も聴きすぎていて、今さら新録音を持ち出されて、これが決定盤だと言われても納得できなくなってしまっているのかもしれない。新装『SMiLE』においては、オリジナル音源にみられた、張り詰めた緊張感や、革新的なものを作ろうとする使命感といったものは、きれいさっぱりと取り除かれてしまい、(ビーチ・ボーイズのメンバーにさえ、その音楽を理解してもらえなかった、かつての制作現場とは異なり)ブライアンとその音楽を心から愛する、ワンダーミンツのメンバーを始めとするバックバンドに支えられて、リラックスしたムードの中で、ひたすら明るく楽天的な音楽が奏でられていく。『SMiLE』が難解な実験作などではなく、ビーチ・ボーイズの他のアルバムと変わらぬ、優れたポップ・アルバムであるということが改めて立証されたことは、本作における収穫のひとつだといえるだろう。強制された笑顔(『Smiley Smile』)から、完璧な笑顔へと。ここで聴くことのできるブライアンのヴォーカルからは、現在の彼の幸せな姿が浮かんでくるようではないか。議論の余地は依然として残されてはいるものの、もはやこれ以上、余人が口を挟むのは無粋であろう。



The Pastels / Up For a Bit With The Pastels (Fire SFIRE019CD)

ポップ・ミュージックが、その他のジャンルと異なる点のひとつには、演奏の巧拙が、その音楽に対する評価の絶対的な基準とは必ずしもならないことが挙げられるだろう。そのことが、技術を伴わないままにプロ・デビューするミュージシャンを大量に発生させてしまう要因ともなっているわけだが、逆に言えば、別に3歳から音楽の英才教育を受けてなどいなくても、あるいは、音大を主席で卒業するどころか、譜面さえろくに読むことができないとしても、新しい若者に音楽で生計を立てていこうとする夢と希望を与え続けているのだ。

バーナード・サムナーやイアン・ブラウンなど、歌うことが苦手なヴォーカリストを輩出することにかけては悪名高いイギリスの音楽シーンにおいてさえ、このグラスゴー出身のパステルズのリード・シンガー、スティーヴン・パステルの下手糞さ加減は群を抜いている。レコーディング・テクノロジーによってごまかすことのない(できない?)正直さは認めるものの、音程さえまともに取ることができないのだから、やはり好ましいことであるとは言えないだろう。しかしながら、スティーヴンより巧みに歌うことができるヴォーカリストや、パステルズよりも技術的に安定したバンドは、アマチュアの中でさえ決して少なくはないだろうが、1987年に発表された、彼らの1stアルバム『Up For a Bit With The Pastels』よりも優れたレコードを作ろうとすることは至難の業であるに違いない。

パステルズパステルズの音楽を語る際に、キーワードとなるのは<脱力感>だといえる。もちろん、それを味あわせられる破目になるのは聴き手の方である。オープニングの「Ride」のイントロにおける安っぽい打ち込みの音に腰砕けになっているようであれば、それに続くスティーヴンの、譜面では再現不可能かと思わせるようなアナーキーなヴォーカル・スタイルにショックを受けてしまうことになるかもしれない。しかし、本当に驚くべきことは、それでいながらも、パステルズの音楽には、他にみられない類の魅力が感じられる、ということである。平板な調子で淡々と最後まで進んでいくかのように思えて、さりげないフックといえるような部分が現れては、そっと聴き手の琴線に訴えかけてくる、「Crawl Babies」や「I'm Alright With You」といった楽曲を聴けば、パステルズがただ単に演奏が下手なバンドというだけでなく、確かなソングライティングの能力も兼ね備えていることが伝わってくるだろう。さらにアルバム後半になると、楽曲に幾分動きが出てきて、バンドは平熱から微熱を帯びた状態に変化していく。アルバム中最もポップな「Automatically Yours」のサビの部分では、高らかに鐘が打ち鳴らされ、「Baby Honey」の長い後奏では、様々なSEが被さり、サイケデリックな陶酔感がもたらされる。これらに続く、エンディング曲「If I Could Tell You」では、再び典型的、かつ最高のパステルズ節を聴くことができるが、ここまで辿り着くことができたリスナーにとっては、どこか(精神状態がボロボロの時の)シド・バレットにも似た、スティーヴンの調子外れな歌声に愛着を憶え始めているかもしれない。そう、その魅力にいったん取り憑かれてしまえば、スティーヴンの歌声(彼に較べれば、ジャスティン・ティンバーブレイクがマーヴィン・ゲイのように思えてくる)や、たどたどしいバンドの演奏も、その音楽に必要不可欠なものであるように思えてくるのは、まさにポップ・ミュージックの不思議であり、ひいてはパステルズの音楽が醸し出すマジックでもあるのだ。

1982年にシングル・デビューし、まもなく四半世紀に及ぼうかという、長いパステルズのキャリアにおいて、これまでに発表されたオリジナル・アルバムの数は僅か5枚にしか過ぎない。普段はレコード屋の店員をしていて、気が向いた時にだけパステルズの活動を始める(彼らのHPには、2005年4月現在、ライヴの予定は“none”となっている)というスティーヴン・パステルは、いわば<パートタイム・ロッカー>とでも言うべき存在であり、そのせいもあるのか、キャリア20年を超えても、スティーヴンの声は捩れたままだし、バンドの演奏もさほど上達したようには思えない。しかし、そのマイ・ペースな活動ぶりや、頑なに自己のスタイルを貫く音楽性は、ティーンエイジ・ファンクラブを始め、現在も多くのアーティストからリスペクトを集めているし、1998年に発表されたリミックス・アルバム『Illuminati』では、マイ・ブラディ・ヴァレンタイン、コーネリアス、ジム・オルーク、ステレオラブ、マウス・オン・マーズなど、錚々たるメンツがリミキサー陣として迎えられている。はたして、彼らはパステルズの何処に惹かれるのか?いや、答えるまでもないだろう。理由はすべてこのアルバムの中にあるのだから。

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ディスク・レビュー6


The Jesus and Mary Chain / Automatic (Warner Music Japan WPCR-1318)

ジーザス・アンド・メリー・チェインの1stアルバムは、不毛の80年代にあって、唯一ともいえる革新的な音楽的スタイルを提示してみせた作品である。今でも、ラジオから流れてきた「My Little Underground」を初めて聴いたときの衝撃というものは忘れることができない。しかしながら、彼らにとっては、『Psychocandy』というアルバムは、以降のキャリアにおいて、ずっと背負っていかねばならない十字架ともなった。<ジーザス・アンド・メリー・チェイン=フィードバック・ノイズ>という図式ができあがってしまったのだ。実際のところ、『Psychocandy』と、初期のレア・トラックを集めた『Barbed Wire Kisses』を除けば、フィードバック・ノイズはそれほど用いられていないにも関わらず、である。

オートマティック彼らの2ndアルバム『Darklands』は、そういったイメージや、初期衝動のコンプレックスから逃避するかのように、デビュー・アルバム全体を覆い尽くしていたフィードバック・ノイズはきれいさっぱり取り除かれていたが、残念ながら、それ以上の内容はほとんど無く、彼らの音楽を特別なものにしていたのはノイズの塊にしかすぎなかったのだろうか、という誤解を生み出しかねないものとなっていた。しかしながら、1988年の画期的なシングル「Sidewalking」に続いて、翌89年に発表された、この『Automatic』において、ジムとウィリアムのリード兄弟は、煮詰まりつつあったバンドを不況状態から救い、新たな局面を打ち出すことに成功した。オープニングの「Here Comes Alice」こそ、前作の「Darklands」を思わせる重い足取りで始まるが、ZZトップ風のリフで幕開ける、続く「Coast To Coast」を聴けば、彼らの意図は明確なものとなる。具体的に言えば、メジャー・コードとドラム・マシンの使用ということになるのだろうが、実際の聴覚的には、文字で伝える以上に、それまでの彼らの音像とは隔世の感がある。『Psychocandy』の亡霊を追い払うには、このくらいの吹っ切れ方をしなければならなかったということか。いずれにしろ、彼らの楽曲中もっとも明るい曲調を持つ「Between Planets」、ローリング・ストーンズとビーチ・ボーイズをミキサーにかけて、ドラム・マシンとノイズで味付けしたような「UV Ray」、ピクシーズにカバーされたことでも有名な「Head On」(ブラック・フランシスとは違い、ジム・リードの皮肉っぽく、苦みのあるヴォーカルが素晴らしい)など聴き所も多く、完成度の高いアルバムであることは疑いようがないだろう。あるいは、<らしくない>作品として、一部黒装束の愛好家たちには受けが悪かったりもするのだが、さほど成果を上げることもなく終わってしまった、以降の彼らの歩みを見れば、むしろ個人的には、このアルバムの路線をもっと突き詰めてほしかったくらいである。ちなみに、いかにも蛇足という印象を与える、最後の2曲「Drop」と「Sunray」は、オリジナルのLPには含まれていなかった、CDのみのボーナス・トラックであることを付記しておきたい。

もし彼らが1stアルバムだけを残してすぐに解散していたら?と時々考える。おそらく伝説のバンドとして、現在よりもずっと高い評価を得ていたのではないだろうか。デビュー当初は、<ピストルズの再来>とも騒がれていたが、幸か不幸か、彼らは破滅的な性向は持ち合わせていなかったし、むしろ生真面目すぎるくらいのバンドであったように思われる。アーティストとして生き長らえることの難しさについて、改めて思いを馳せずにはいられない。とはいえ、ジーザス・アンド・メリー・チェインにとっては悪いことばかりでもない。マイ・ブラディ・ヴァレンタイン、スローダイブ、ライドといった、シューゲイザーの一派はもちろん、最近では、ブラック・レベル・モーターサイクル・クラブ、レヴォネッツ、レディオ・デプトといったバンドに至るまで、彼らの影響を感じさせる音楽は今もあちらこちらで聴くことができる。まさに<イエスとマリアの絆>から産み落とされた申し子たちのようである。そして、ジーザス・アンド・メリー・チェイン自身もまた偶像であり続けるのだ。



David Bowie / Aladdin Sane (Rykodisc RCD 10135)

映画『ベルベット・ゴールドマイン』に対して、デヴィッド・ボウイは自身の楽曲を使用することを許さなかった(映画は実際にボウイの身に起きたエピソードを元に製作されており、タイトルも彼の楽曲から取られている)。その理由は映画を観れば明らかだろう。そこには、(グラム・ロック時代の)ボウイに対する限りない愛情が描かれると同時に、現在のボウイに対する痛烈な皮肉も込められていたのだから。とはいえ、こういった愛憎半ばの想いはトッド・ヘインズ監督に固有のものというわけではなく、多くのボウイ・ファンが共有するところのものであろう。音楽的にもルックス的にも様々な変遷を辿ってきたボウイだが、『Let's Dance』以前と、以降のキャリアとでは、<変化>という言葉ではもはや片付けられないような<断絶>がある。ミステリアスなカルト・ヒーローが、ある日突然売れ線ロックに乗ってMTVの常連アーティストになってしまったのだ(幻想的で美しい「Ashes To Ashes」のビデオ・クリップで道化師に扮していたボウイと、「Let's Dance」のクリップにおけるニヤけたギタリストとが同一人物だとはにわかに信じがたい)。『Let's Dance』はボウイをお茶の間レベルの世界的スターへとのし上げたが、その代償も決して少なくはなかった。ファンも、そしてボウイ自身もまた、その大きなギャップをいまだに埋められずにいるようだ。

いまだに議論を呼ぶ、デヴィッド・ボウイの<転身>ぶりについてはひとまず置いておいて、70年代に限って言えば、次から次へと傑作がボウイによって生み出されていった、ファンにとってはまさに夢のような歳月だったに違いない。『Hunky Dory』、『The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The Spiders From Mars』、『Low』、『Heroes』といったアルバムは、時が経過しても色褪せることのない、いずれ劣らぬ名盤である。ただし、その一方では、あまりにも短期間のうちに素晴らしい作品が集中したために、それらの傑作の陰で(80年代以降の作品とは違った意味で)見過ごされているアルバムというのも少なくはなく、ここに紹介する『Aladdin Sane』もそういった過小評価されがちな作品のひとつであるかもしれない。『Ziggy Stardust』に続き、1973年に発表されたこのアルバムは、出世作となった前作とスタイル的にさほど変り映えがないとして、際立って取り上げられることがあまりないアルバムではあるが、モット・ザ・フープルの『All The Young Dudes』や、ルー・リードの『Transformer』のプロデュース(及び楽曲提供)をこなしながら、過酷なスケジュールの合間をぬって、ツアーでまわった各地でレコーディングされていることを思えば、『Ziggy Stardust』から僅か1年足らずでこれだけの楽曲を揃えたことに驚かざるをえないだろう。

アラジン・セインオープニングのリフが印象的な「Watch That Man」は、前作の勢いをそのまま引き継ぎながらも、それまではグラムの仮面の下に潜んでいたローリング・ストーンズの影響が顕著となった1曲である。ただし、ストーンズのアーシーな泥臭い感覚というものはなく、どこか人工的な仕上がりとなっているのはボウイならでは、と言えるかもしれない(一時期のプライマル・スクリームを思わせる)。さらには、まるでネタ明かしをするように、本家ストーンズの「Let's Spend The Night Together」がカヴァーされてもいるが、対象への愛情が勝ってしまっているのか、このアルバムの中ではぱっとしない出来になっている。私見だが、ボウイが他人の曲をカヴァーするときはヘンな節回しをつけるところに違和感があって、あまり感心しない。それよりはストーンズやR&Bがボウイ風に料理された「Panic In Detroit」や「Cracked Actor」といったオリジナル曲のほうがずっと素晴らしい。特筆すべきは、このアルバムからバンドに加わったマイク・ガーソンの存在であり、クラシック、もしくはジャズの素養があるのか、ミック・ロンソンとは違った彼の格調高いピアノ・プレイはこのアルバムの聴き物のひとつとなっている。「Aladdin Sane(1913-1938-197?)」における前衛音楽風のフレーズの羅列や、「Lady Grinning Soul」(ボウイの最も過小評価されている傑作のひとつ)の間奏で突如現れるアコースティック・ギターとの絡み合いなど、実に美しく、それまでになかった新たな趣向をボウイの音楽にもたらしている。そして、このアルバムから1曲だけを取り上げるとするならば、やはり「The Jean Genie」だろう。「イギー・ポップ、あるいはイギーのようなタイプの人に寄せる叙情詩」とボウイが語るこの曲は、ストーンズとイギー・ポップ、グラム・ロックとR&Bとがミックスされた、まさに“Ziggy Goes To America”というコンセプトが凝縮された、このアルバムの性格を代表する、そしてまた、ボウイ自身が2000年のラジオ・インタビューでお気に入りとして挙げていた1曲でもある。

『Hunky Dory』に収録された「Changes」という楽曲、および<時は僕を変えていく(Time may change me)>というフレーズは、その後のボウイを象徴するものとして、彼を紹介する文章の中で度々引用されている。実際、デヴィッド・ボウイほど変化し続けていくことの重要性や勇敢さであるとともに、その恐ろしさや残酷さを体現してみせたアーティストはいないであろう。『Let’s Dance』以前と以降を巡る、不毛でヒステリックな弾劾裁判は今後も終わりそうにもない。しかしながら、それでも確かに言えることは、前述の「Changes」の中の別のフレーズ、<でも僕は時間に足跡を残せない>に関しては、ボウイの予言は間違っていた、ということである。

70年代のデヴィッド・ボウイのアルバムは内容的には言うまでもなく、ジャケットのデザインにも非常に素晴らしいものが多かった。なかでも、この『Aladdin Sane』は、アーティストのポートレートをあしらったジャケットの最高傑作のひとつであると思う。当時のボウイの<奇矯な美しさ>があますところなく捉えられている。



Elbow / Leaders Of The Free World (V2 VVR1032552)

ポピュラー音楽の世界においては、必ずしもその音楽のみが評価されるというわけではない。コールドプレイとダヴスについて考えてみればいい。2000年、2002年、そして2005年と、この2つのバンドは、3枚のアルバムを全く同じ年に発表してきた。いずれの作品も評論家からは賞賛を集め、音楽的には良きライバルといってもおかしくはない。しかしながら、世間一般から受ける扱いという点では、天と地くらいの差がある。少し前にはオアシスがそのポジションにいたかに思えた、<新しいU2>の座を獲得しつつあるコールドプレイに較べ、ダヴスについては、イギリス国内はともかくとして、世界的にはまだまだマイナー・バンドの域を出ない。この差を何だろうかと案じてみても、やはり純粋に音楽のせいだけだと思うことは到底できない。

今回紹介するエルボーもまた、日本では不当に過小評価されているバンドのひとつ。しかし、その音楽性は、端的に言ってしまえば、レディオヘッド以降を感じさせる叙情派ギター・ロックであり、ジャンル間のエアポケットに陥ってしまうこともなく、むしろUKロック好きであれば、ストライクゾーンのド真ん中に位置してもおかしくはないようなもの。それなのに何故?という気もするが、理由は割合はっきりしているのではないだろうか。前述のダヴスと同じく、それは彼らの地味なルックスやロック・ミュージシャンとしての佇まいに由来する部分が大きいように思われる。毎週のように音楽誌の表紙を飾るのは、やはり見栄えの良いストロークスやフランツ・フェルディナンドといった面々であり、ベイビーシャンブルズのピーター・ドハーティーの馬鹿馬鹿しくもスキャンダラスな一挙手一投足こそを、喜んでメディアは書き立てるのだから。

今さらルックスをどうかすることは出来ないし、グウィネス・パルトロウやケイト・モスと付き合うというわけにもいかない、ならばオレ達はあくまで音楽で勝負しようじゃないか!と彼らが思ったかどうかは不明だが、エルボーにとって3枚目にあたる新作『Leaders Of The Free World』の完成度たるや凄まじいものがある。前作『Cast Of Thousands』も非常に素晴らしい内容のアルバムで、実のところ、エルボーはこれ以上の作品はもう作れないのではないかと密かに思っていたのだが、彼らはいともやすやすと自身のピークをまたも塗り替えることに成功したようだ。

エルボーアコースティック・ギターの響きがおやっと思わせる「Station Approach」は、しかし中盤の地響きのようなドラムに導かれて、スケールの大きな叙事詩へと変貌を遂げる、見事なオープニング曲である。どこかトム・ウェイツを思わせる「Picky Bugger」を挟んで、「Forget Myself」はこのアルバムからの1stシングルであり、必ずしも最高の出来というわけではないが、コーラスの開放感がアルバムにおいて最も華やかな瞬間を演出する。「Stops」や「Everthere」では再びアコギが使われるが、トラッドをジャンルとしてではなく、エルボーのサウンドを形成する新機軸の、あくまでもひとつのパーツとして採用していると考えたほうがよさそうだ。タイトル曲である「Leaders Of The Free World」は、当然ニール・ヤングの「Rockin' In The Free World」と同じく、反語的な意味合いを持つものであり、ポップな曲調がより皮肉な印象を強めている。このアルバムの面白いところは、派手な奇数曲と地味目な偶数曲、という具合にはっきり色分けされている点で、一聴したところでは、奇数曲ばかりが耳に残るのだが、何度か聴いていくうちに、むしろ偶数曲の良さがじわじわと伝わって、この曲順が実に巧みでバランスの良いものに感じられ、そうするとアルバムの価値がますます高まると同時に、その全体像の大きさに圧倒されることになるのだ。このアルバムのハイライトはおそらく「My Very Best」(タイトル自体が物語っているか?)であろう。1stアルバムの「Powder Blue」の『Leaders Of The Free World』版というべきか、彼らのアルバムには必ず収められている必殺のバラード・ナンバーであるが、エレクトロニカ風の効果音とストリングスが効果的に混ぜ合わされ、実にスムーズで快適なサウンドを提供してくれる。まさに夢見心地のようだ。

正直言って、今後も彼らがセンセーショナルな話題を振り撒くのを想像することは難しい。しかし、音楽そのものの先鋭性・洗練度に関して、現在のイギリスのシーンにおいてエルボーの右に並ぶものはほとんど見当たらない。孤高の音楽至上主義集団というに相応しい。そして、エルボーの音楽は今その最高点を示さんとしている。

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Classical Disc Review


Stravinsky ・ Pulcinella etc. / Orchestre National de France ・ Pierre Boulez etc. (Apex 2564-62088-2)

「カメレオン」、あるいは「1001の顔を持つ男」(←なぜ「1001」なのだろうか?)などと称されたりもする、ロシア出身の作曲家イーゴル・ストラヴィンスキーだが、熱心なファンでない限り、その全貌を知る人は意外と少ないのではないだろうか。『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』という、所謂「3大バレエ」曲はあまりに有名だが、ストラヴィンスキーがまだ20代後半から30代前半であったときに作曲されたそれらの作品のイメージが広く流布してしまったために、上記のように称されているにも関わらず、それ以外の時期(89歳まで生きたストラヴィンスキーにとってはより長い時期)に作られた彼の音楽を耳にすると、少なからず違和感を憶えてしまうのだ。

プルチネッラ1919年に作曲された『プルチネルラ』は、『春の祭典』のわずか6年後の作品であるが、また同じバレエ音楽でありながら、あのリズムの饗宴といった野性の醍醐味のようなものは殆んど聴くことはできず、その代わりにここで展開されるのは、バロック音楽そのものの世界である。何の予備知識も持たない者がこの2作品を聴けば、よもや両者が同じ作曲家から生み出されたものだとは思わないのではないだろうか。18世紀イタリアの作曲家ペルゴレージの作品をもとにしているということもあるのだろうが、それにしても見事な変貌ぶりであって、よく聴けば、3大バレエにも通じる旋律が部分的には感じられたりもするのだが、それにしたところで、ハイドンとモーツァルトの類似点を探すほうがずっと容易であるだろう。さらに晩年にすすむと、『3楽章の交響曲』を始めとして、また違った作風となっており、ストラヴィンスキーの場合、他の作曲家と違って、様々な作品を聴けば聴くほど、どこに彼の本質的な部分があるのかが分からなくなってきてしまう。まさに「カメレオン」作曲家の本領発揮といったところだろうが、カメレオンが皮膚の色を変化させているにすぎないのと同じように、ストラヴィンスキーの音楽にもどこか一貫した部分があるのではないだろうか。それとも、そもそも確固とした特徴を持たないことがストラヴィンスキーの音楽の特徴なのだろうか。正直なところ、僕にはまだ分からない。しかし、だからこそ、また彼の音楽を聴き続けるのだ。


死にゆく者は末期の瞬間に、過ぎ去った全生涯が眼の前に繰り広げられるのを見るのだという。ストラヴィンスキーの音楽のなかで、ヨーロッパ音楽はみずからの千年の生涯を思い出したのであり、それは夢のない永久の眠りに向かうまえの、ヨーロッパ音楽の最後の夢だったのだ。 (ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』より)


Mahler ・ Symphonie Nr.10 / Berliner Philharmoniker ・ Simon Rattle (EMI Classics 7243 5 56972 2 6)

一番好きな作曲家は?と問われれば、迷うことなく、マーラーだと答える。そもそも、クラシックや現代音楽などにのめり込むきっかけとなったのもマーラーに興味を持ったからで、それは『ベニスに死す』やケン・ラッセルの『マーラー』などといった映画からの影響があったからなのだけれども、他にはベートーヴェンやリヒャルト・シュトラウスも好きだし、シュニトケやショスタコーヴィチに興味が移るときもあるし、クセナキスやリゲティやストラヴィンスキーなどにも関心は多いにあるが、最終的には、いつの間にか、またマーラーへと戻ってきてしまう自分に気付くことになってしまう。

マーラー10番ここのところ、ラトル指揮ベルリン・フィルによる、マーラーの交響曲第10番(クック版)のディスクをよく聴いている。これまでは、この作品にはさほど親しいとはいえなかった。別にマーラー純粋主義者を気取っていたわけではないけれども、やはり遺稿に他人が手を加えた全曲版、という考えそのものに、ぞっとしない部分もあったのもかもしれない。しかし、今回改めて聴いてみて、第2楽章以降にもはっきりとマーラーの刻印は随所に感じられるということに初めて気付かされて、ただし、それがマーラー自身がスコアに記したものなのか、クックがマーラー的な雰囲気を表出しようと演出したものなのか、それがこちらには分からないのが歯痒いのだけれども、たとえクックによる恣意的な部分が付け加えられていたとしても、例えば第5楽章など、完成していれば、おそらくマーラーの最も美しい作品のひとつになっただろう、ということは想像に難くはないだけに、未完成作品は未完成のままが一番美しい、という考え方は多分に正しいだろうにも関わらず、真剣に聴く価値は充分にあることを思い知らされるディスクであると思う。

ただし、ラトル指揮によるマーラーの録音を聴く際には、毎回付き纏う問題があって、それはクラシック・ファンであればご存知の通り、EMIの録音技術のまずさで、特に弦楽器に顕著なように思えるのだが、音に厚みと広がりがなく、全体的にオケが痩せて聴こえてきて、天下のベルリン・フィルによって演奏されているとは思えないくらい。この点は、(日本の)クラシック・ファンやクラシック関係のサイトではよく話題に上がっているにも関わらず、一向に改善される気配もなく、同じラトル/ベルリンのコンビによって、後に録音された、マーラーの5番のディスクでも全く同じ問題を抱えており、海外ではあまり録音技術の問題はクローズアップされないのだろうか?と不思議に思ってしまう。

マーラーは交響曲第9番を、この世からの告別として書いた、ということがよく言われるが、この第10番を聴いていると、その解釈は少し違うのではないか、という気になってくる。現世と決別した人が、新しい交響曲の完成への執念をみせたり、あるいはその楽譜に、妻の不倫に苦しみながらも、それを許そうとする言葉を書き込んだりするだろうか?僕がその音楽から感じるのは「死」ではなく、寧ろ限りある「生」への執着である。



Shostakovich ・ Symphony No.8 etc. / Leningrad Philharmonic Orchestra ・ Evgeny Mravinsky (BBC Legends 4002-2)

ショスタコーヴィチの交響曲第5番が好きだ、とうっかり言ってしまうと、ショスタコ・ファンからは鼻で笑われてしまうかもしれない。どうしてなのか、ショスターヴィチの熱心なファンであればあるほど、交響曲第5番を他の交響作品に較べて、一段低いものとみなす傾向が強いような気がする。ちょうどシベリウス・ファンにとっての交響曲第2番のようなものであるのかもしれない。しかしながら、ショスタコの5番は彼のエッセンスがコンパクトかつキャッチーに表現されながらも、(シベリウスの2番ほどには)通俗的ではなく、品位と風格を兼ね備えた名作であるように個人的には思われる。

閑話休題。ではショスタコ・ファンに、彼の交響曲中最高の傑作は?と問えば、最大公約数的には、おそらく交響曲第8番になるのではないだろうか。印象的なフレーズの幕開けによるドラマティックな第1楽章、思索的な緩楽章、楽天的な響きを持つ終楽章・・・・・と書いていけば、第5交響曲と一緒じゃないかという気もしてくるが、5番の世界観をより深化させているところに、その真価を見出すファンや評者が多いのかもしれない。それは分かるのだが、よりミステリアスな15番がショスタコーヴィチのベスト・シンフォニーだと考えている僕にとっては、そこまでの作品なのだろうかという思いもあった・・・・・この演奏を聴くまでは。

ショスタコ8番1960年のムラヴィーンスキイとレニングラード・フィルによるロンドンにおける演奏会を、BBCが実況録音した本盤を聴けば、何故ムラヴィーンスキイ指揮によるショスタコーヴィチ演奏が特別なものであるのか、ということが一目瞭然に分かってしまう。ゲルギエフ/キーロフ管による演奏などは、これを聴いてしまうと、中古レコード屋の在庫品の奥へと投げ飛ばしたくなってしまう。それが何故なのか当然理由はあるのだろうが、残念ながら詳しく説明するだけの知識を当方は持ち合わせてはいない。しかし、何も難しく考える必要はないだろう。ただ音を聴くだけで、格の違いのようなものがひしひしと伝わってくる。演奏によって、音楽そのものの価値観さえ違ってくるという、圧倒的で稀有な体験がそこからは味わうことができるのだ。

1960年の放送音源でありながらも、ステレオ録音であり、時代を考えると録音状態はかなり良い部類に入るものと思われる。ただし、当時のロンドンでは風邪でも流行していたのか、演奏中にも絶えず観客席から咳き込む音が聞こえてきて、初めて聴く分にはかなり気になってしまう人もいるかもしれない。ただし、そのことによって、このCDを聴くのを避けてしまう理由とはなり得はしない。最初は戸惑っても、何度か聴いていけば、グレン・グールドのうなり声と同じで、やがて気にもならなくなるだろうから(?)

また、モーツァルトの交響曲第33番が併録(ディスクは別)されているが、これがまた、ロシア流モーツァルトとでもいうべきなのか、これほどドラマティックかつ鋭角的に演奏されるモーツァルトというのも珍しいかもしれない。これはモーツァルトではない、という人もいるかもしれないが、個人的には作品との相性もあってか、これくらい刺激的な演奏のほうが楽しめるような気もする。それに、モーツァルトではない、というほどではないと思う。これもまたモーツァルトの別の側面である。少し目つきは悪いかもしれないが。


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ディスク・レビュー7


Queens of The Stone Age / Songs For The Deaf (Universal International UICF-1010)

「ニコチン、ヴァリウム、ヴィゴディン、ヘロイン、マリファナ、エクスタシー、アルコール・・・・・コ、コ、コ、コカイン!」とドラッグの名前を連呼する(というか、歌詞はそれだけなのだが)『Feel Good Hit Of The Summer』の強烈な歌詞と音のイメージによって、ストーナー・ロックの代表格とみなされているクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ(以下、QOTSA)だが、個人的には、ニルヴァーナ以来の優れたハードロック・バンドとして聴いている。今回紹介する『Songs For The Deaf』は、2002年に発表された、彼らにとって3枚目にあたるアルバムだが、元ニルヴァーナ/現フー・ファイターズのデイヴ・グロールがドラマーとして全面的に参加していることでも話題になった。その期間はフーファイターズとしての活動を停止してまで、レコーディングやライヴに参加したというのだから、デイヴのQOTSAに対するリスペクトの大きさが窺い知ることができる。この作品におけるパワフルなドラム・サウンドを聴いただけで、ニルヴァーナ時代にはお馴染みだった、あの激しいパフォーマンスの光景が目に浮かんでくるようだ。

QOTSAをフルで聴いたことがあるのはこのアルバムだけなので確信的なことは言えないが、それまでの彼らの作品に較べると、この作品はハードロック/ヘヴィメタル寄りの音作りがなされているように思われる。ここでいうHR/HMとは、言葉本来の意味でのハードでヘヴィな音楽、ということである。マリファナを吸って、四六時中ブッ飛んだ状態でいるかのような、彼らのパブリック・イメージからすれば、ずっとシリアスで、極めて真っ当なロック・アルバムであるともさえいえるかもしれない。凡百のHR/HMバンドにありがちな、媚びるような態度や奇妙な演劇性とも無縁に、ひたすらソリッドでハードボイルドなロック・サウンドを叩きつけていく。しかしながら、そこには印象的なリフだけでなく、キャッチーなフックや歌メロを付け加えることにも抜かりは無く、何度か聴き返すうちに、その不穏でメタリックなサウンドの内に秘められた、心弾むようなポップな一面にも気付かされることになるのだ。それは強面なヤンキーに話し掛けてみたら、実際はいい人だったのと同じ・・・・・かどうかは分からないが、ともかく、彼らが実際にドラッグをやっているかどうかは別にして、彼らが生み出す音楽もまた劇薬並のものであることは間違いないだろう。

皮肉なのか、それとも差別的なのかよく分からないアルバム・タイトルや、含みがありそうで、実のところ、たいした意味は無いのではないかと思われる歌詞、それに曲間に挿入されるDJのアナウンスも果たして効果的なのかどうか果てしなく疑問ではある。しかしそれでいてなお、このアルバムの魅力はまるで損なわれることはない。日本のリスナーはどうしてもジャンル聴きする傾向があって、QOTSAのようなバンドは、UK/オルタナ好きのリスナーには、メタルっぽい、と敬遠され、逆に、HR/HMを好むような人たちには、シリアスでパンク的過ぎる、ということになってしまい、エアポケット状態に陥ったまま人気が出ないことが多いが、視点を変えてみれば、UK/オルタナ好きもHR/HMフリークをも取り込むことができる、まさしくニルヴァーナに匹敵する可能性を秘めたバンドだといえるのではないか。これだけの音の強度を持った楽曲群を無視することは惜しい。偏見を持たずに、是非もっと多くのリスナーに聴いてみてほしいアルバムである。



Low / Christmas (Tugboat TUGCD014)

「クリスマス商戦」という言葉があるように、もはやクリスマスは消費社会における一大イベントと化してしまっているが、クリスマス・ソングも同様、数多のそれらは、そのイベントの一翼を担おうと、あわよくば恩恵を被ろうとして毎年世に送り出されているのだろう。

ロウカナダの3人組、ロウが1999年に発表したミニ・アルバム『Christmas』は、僕がこれまでに聴いたなかで最も暗いクリスマス・ソング集として記憶している。オリジナルに加え、クリスマス・ソングのカバーなども収録されてはいるが、鈴の音が如何にもクリスマス的な意匠を醸し出す、オープニングの「Just Like Christmas」を除けば、普段の彼らとほとんど変わりない、間延びしたようなアンニュイな雰囲気の音楽が淡々と展開されていく。それは巷に流れる、安っぽい幸福のイメージを消費者に焼き付けて、ひたすら購買意欲を加速させんとする「クリスマス・ソング」からは遠く隔たったものだが、実のところ、かつての「クリスマス」とは、このアルバムの音楽のように、静かで厳かなものだったのではないか、と思い出させるような、どこか真摯な響きがここにはある。

今年発表された『The Great Destroyer』の楽曲を聴けば、幾分メジャーな音のスケール感のようなものを纏いつつもあるロウだが、このミニ・アルバムが発表された時点では、日本のみならず、欧米でも彼らを知る者は圧倒的に少なく、クリスマス・アルバムを発表することの商業的メリットはほとんど無かったはずである(クリスマス・ソングは有名ミュージシャンがこぞって出すもの。無名の新人が出すクリスマス・ソングなど誰が聴くというのだろう?)。また、彼らが敬虔なモルモン教徒だという話もファンの間ではよく知られた話である。従って、この作品は、現代の「クリスマス」に対する、彼らなりのプロテスト・ソング集ではないかと推察するわけである。あまりにも有名な「Silent Night」が、このアルバムにおけるほど、祈りに近く、真実味を持って歌われたことを他に僕は知らない。

余談ではあるが、このアルバムに収録された「Little Drummer Boy」は何とGAPのクリスマスCMに使用された。日本でもテレビで流れていたから記憶している人もいるかもしれない。曲自体が有名で、クリスマスにぴったりだったせいもあるだろうが、ロウの音楽までをも、コマーシャリズムに取り込んでしまう、その商魂に頭を垂れるしかないというか、あきれてしまうやら、何とも複雑な気分になったものである。



Oasis / Don't Believe The Truth (Sony Music Japan EICP 515)

オアシスの栄光の時代に終止符を打つことになった、単調で騒々しい『Be Here Now』以降においても、ノエル・ギャラガーはこれといって新機軸を打ち出したというわけではない。良くも悪くも、オアシスはオアシスのままであるのだが、時代は巡り、オアシスの1stアルバムをリアルタイムで聴いていたような若者たちが、いまや音楽ライターとなって、その『Definitely Maybe』はロック史に残る名盤との位置付けを確立しつつあるようだ。イギリスの亀田兄弟とも言われている(?)ギャラガー兄弟の不遜さは相変わらずなのだが、時代性を巧みに取り入れることなど到底無理であり、実は時代が寄り添ってくれることを祈るしかない、不器用なバンドであるオアシスにとっては再び大きなチャンスが巡ってきたと言えるのかもしれない。

バンド・ロゴが元に戻っただけでなく、音的にも初期への回帰の声が強かった、この『Don't Believe The Truth』ではあるのだが、その内実は1stの頃とは大きく異なっている。ノエルの復権はやはり今回も果たされず、遂に彼のペンになる曲は、アルバム全11曲の半分に満たない5曲に留まってしまった。さらに、「Lyla」はローリング・ストーンズの「Street Fighting Man」、「Mucky Fingers」はヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「I'm Waiting For The Man」、「Let There Be Love」はジョン・レノンの「Imagine」・・・・・といった具合に、これまで以上に元ネタとなる楽曲が透けて見える(後奏部分まで「Street Fighting Man」そっくりな「Lyla」を聴くと、もしかしてこれはパロディなのか?と訝しんでしまうほどだ)に至っては、ノエルの才能の枯渇を心配したくなるのも当然のことだといえる。

ブライアン・ウィルソンのように、ドラッグや神経衰弱に悩まされているわけではないのに、以前のように名曲を連発できなくなったリーダーはひとまず置いておいて、いや、むしろそれだからこそなのか、他のメンバーの貢献度は、このアルバムにおいては決して小さいものではない。リアムはさすがに名ソングライターとまでは言えないものの、サイケデリック風味の「Love Like a Bomb」や「Guess God Thinks I'm Abel」、そして、あっという間に終わってしまう歯切れの良い「The Meaning Of Soul」などで、ノエルとは異なる個性をアピールする一方、ゲムは以前在籍していたヘヴィー・ステレオを彷彿とさせる、Tレックス風の「A Bell Will Ring」を提供している。しかし、何といってもアンディ・ベルによる2曲が特筆されるべきであり、彼のおかげでこのアルバムが沈没するのを免れたといっても過言ではない。ライド時代にはオアシスのファンを公言し、ライド解散後はハリケーン#1という、オアシスそのまんま、といった感じの音のバンドを結成していたこともある彼だけに、「Turn Up The Sun」は、現在のノエル作品よりも(かつての)オアシスらしい楽曲で、いかにもオープニングにぴったり、といったナンバーだ。くわえて、もう1曲の「Keep The Dream Alive」こそ、このアルバム一番の名曲であり、「Don't Look Back In Anger」、「Champagne Supernova」といった彼らの代表曲にも遜色無いように思われる。いつになくデリケートなリアムのヴォーカルが、このエモーショナルで美しい楽曲に添えられ、ここではノエルの存在感は極めて乏しいと言わざるを得ない。

一方で、ラストの「Let There Be Love」では、「Acquiesce」以来久々に、兄弟デュエットを披露しているが、それはまるで、このバンドにおける真の主役は誰なのかということを最後に改めて主張してみせたようにも聴こえる。たしかに、ギャラガー兄弟の、時に傲慢ながらも憎めないキャラクターはいまだにこのバンドの魅力のひとつであるし、今後もオアシスがそのオアシスらしさを失うことはありえないのだろう。そしてまた、新作アルバムを出す度に、『Definitely Maybe』や『(What's The Story) Morning Glory?』と比較されることも免れないのだろう。いずれにしろ、この『Don't Believe The Truth』において明らかになったのは、時間の経過によって、幸か不幸か、オアシスはかつてのようなオアシスでは無くなった、ということである。

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ディスク・レビュー8


The Raveonettes / Lust Lust Lust (2007)

デンマーク出身の男女デュオによる、フルアルバムとしては3枚目に当たる作品。(1)全曲同じキーで録音する (2)3コードしか使わない (3)曲は全て3分以内 (4)ハイハットやライド・シンバルは使わない、といった自身に課していたユニークな制約からは徐々に解放されつつあるようで、今作のオープング曲である“Aly, Walk With Me”など、5分近くに及ぶ、彼らにとっては「大作」である。しかし、ざっと聴いた限りでは、ハイハットの音は聴こえないし、ほとんどの曲は3コードしか使っていないようであるので、限られた条件の中で、自分たちのクリエイティビティを最大限に発揮しようとする姿勢に変わりはないようだ。

これまでのレヴォネッツを振り返ってみると、デヴューEPや1stアルバムでこそ、ジーザス&メリー・チェインのコピーバンドにすぎないように見られていたが、前作の『Pretty In Black』においては、初期に顕著だった、フィードバック・ギター・サウンドを捨て、いきなり60'sガールズ・ポップやロックンロールのような世界を構築した、見事な作品であった。批評的な、あるいは彼ら自身のキャリアの観点でいえば、それらを受けて、次の一手をどう出してくるのかが、このアルバムの焦点であったように思える。

果たして、この『Lust Lust Lust』は、前2作の『Chain Gang Of Love』と『Pretty In Black』を掛け合わせたようなアルバムとなった。しかし、それだけではない。つまり、単なるジーザス&メリー・チェインと60'sガールズ・ポップの足し算ではないということだ。これまでは借り物の衣装を纏うにすぎなかった彼らが、ついに「レヴォネッツの音」と呼べ得るようなサウンドに辿り着くことができたのだ。“Aly, Walk With Me”は気怠い単調さの中にも、これまでになかったスケール感によって、新しい境地をリスナーに告げる、という意味ではオープニングにぴったりだ。しかしながら、アルバムがフルスロットルを始めるのは4曲目の“Dead Sound”からである。そして、以降は全速力でアルバムを駆け抜ていく。その意味では、このアルバムは2ndよりも1stアルバムの頃をより彷彿とさせるといえるかもしれないが、随所に聴くことのできる効果的な音飾や、自己を客観的に見つめる余裕のようなものがこれまでとは違う。“You Want The Candy”や“Blush”のようなノリノリのR&Rチューンも、“With My Eyes Closed”や“The Best Dies”のような美しいスローナンバーも、実に自然体に響いてくるのだ。そして、それらのすべてが、このアルバムを、またレヴォネッツ自身をも、これまでより、一段階ステップアップしたように、一皮剥けたように感じさせるのである。

それにしても、彼らがデンマーク出身だということは、音を聴いた限りでは、それを判断するのはまったく不可能だ。音楽におけるグローバリゼーション化がそれだけ進んだ証だといえるかもしれないが、少なくとも、この素晴らしい『Lust Lust Lust』にグローバリゼーションによる弊害を感じる人などいないだろう。そんなことよりも、彼らを語る際に必ず出てくる、冒頭の4つの枕詞とは裏腹に、実は彼らはかなりの戦略家であったことに留意しなければならないようだ。



Brahms ・ Serenades etc. / Berliner Philharmoniker ・ Claudio Abbado etc. (Deutsche Grammopho 00289 477 5424)

ブラームスの管弦楽作品の中で、個人的に気に入っているのは『セレナード第2番』。「ベートーヴェンの後継者」、「ドイツ的」、「重厚」といった、一般的に形容されるブラームスのイメージからはかけ離れているかもしれないけれど、第1楽章冒頭部分の印象的なフレーズをはじめとして、牧歌的で、永遠を感じさせてくれるような旋律が満載された名曲である。

ハンガリー舞曲4つあるブラームスの交響曲などは、気合が入りすぎというか、ベートーヴェンを意識し過ぎというか、旋律が要求する以上に分厚いオーケーストレーションが施されているような印象があって、いずれも名作であることは疑いようのないことだろうけれども、時にトゥー・マッチになってしまう。クララ・シューマンとのエピソードなどを鑑みても、実はブラームスはセンチメンタリストではなかったかと思うのだけれど、その作品も、ピアノ三重奏曲第1番やクラリネット五重奏曲など、叙情的な旋律が際立った作品の方がずっと魅力的であるように思われる。

このCDはセレナード第1番と第2番のほかに、ハンガリー舞曲の全曲、さらには大学祝典序曲と悲劇的序曲までもがカップリングされたもので、しかも2枚組を1枚分の値段で買うことのできる非常にお徳なディスク。クラウディオ・アバドがベルリン・フィルとウィーン・フィルの2大オケを振り分けている点も聴き所のひとつであるだろう。


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