「ロード・オブ・ウォー」 ♪ 「弓」 ♪ 「ジェリー」
「マリー・アントワネット」 ♪ 「マッチポイント」 ♪ 「ビフォア・サンセット」
「ドリーマーズ」 ♪ 「CODE46」 ♪ 「エターナル・サンシャイン」
「スイミング・プール」 ♪ 2004年ベスト5 ♪ 「フル・フロンタル」
「ロスト・イン・トランスレーション」 ♪ 「テープ」 ♪ 「21グラム」
「殺人の追憶」 ♪ 「ドッグヴィル」 ♪ 「8 Mile」
「ラブ・アクチュアリー」 ♪ 「ストーリーテリング」 ♪ 「イギリスから来た男」
「24アワー・パーティ・ピープル」 ♪ 「Dolls」 ♪ 「シティ・オブ・ゴッド」
「パンチドランク・ラブ」 ♪ 「不眠症:インソムニア[オリジナル版]」
「ギャングスター・ナンバー1」 ♪ 「ソラリス」 ♪ 「トゥー・ウィークス・ノーティス」
「青い夢の女」 ♪ 「害虫」 ♪ 「スパイダー 少年は蜘蛛にキスする」
「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」 ♪ 「シッピング・ニュース」 ♪ 「ミフネ」
「ハネムーン・キラーズ」 ♪ 「アレックス」 ♪ 「ドッグ・ショウ!」
「天才マックスの世界」 ♪ 2002年ベスト5 ♪ 「イディオッツ」
「リリイ・シュシュのすべて」 ♪ 「A.I.」 ♪ 「バニラ・スカイ」
「渦」 ♪ 「テルミン」 ♪ 「ビヨンド・サイレンス」



「ビヨンド・サイレンス」


この映画の主人公は聾唖の両親を持つ娘で、彼女自身にハンディキャップはありませんが、そんな家庭の事情もあり、自然と幼少の頃より手話の技術を身に付け、両親の通訳を務める他、家庭生活の様々な側面においてケアをします。それゆえ、彼女は授業の途中でも、両親に呼ばれて早退しなければならなかったりもしますが、もちろん子供にとってそれは学業から解放される嬉しいことでもあるわけです(成績は下がりますが)。言ってみれば、親と子がお互いに共存関係のなかにあり、それを娘の目を通して描くことにより、映画としての客観性が保たれる結果となったような気がします。決してお涙頂戴には陥らない、そのドラマ描写におけるバランス感覚は素晴らしいと思いました。

そんな彼女も叔母(美しく才能に溢れた叔母を彼女は慕う)からプレゼントされたクラリネットに夢中になり、音楽の道を志します。ところが父親は猛反対します。それは聾唖ゆえの音楽に対するコンプレックス、という以上に叔母(父親にとっては妹)との積年の葛藤によるものが大きいのです。そこに父親びいきの祖母と叔母を溺愛する祖父の話も加わり、話はまるでファミリートゥリーを遡るが如く複雑化していきます。そしてしがらみを断ち切ってベルリンの叔母の元に行く主人公の娘・・・・・と書いていくと、この映画はハンディキャップ云々とは関係ない、どこにでもある思春期の娘を持つ家族のドラマという気がしてきます。それなら、何故ハンディキャップの家族を扱わなくてはいけなかったのか?逆説的な物言いになるのかもしれませんが、ハンディキャップを持つ家族のありふれたドラマを扱ってはいけないのか?ということにもならないでしょうか。

音を立てて倒れて、死んだふりをして、母親が気付くかどうかいたずら(「もしかしてお母さんは全部聞こえているんじゃないの?」)した妹を主人公は責めます。ところが話を聞いた母親は一笑に臥し、怒るどころか、娘の頭を撫でます。この家族の、そしてこの映画の核心に触れることができたかのようなワンシーンでした。

この映画のなかではアイコンタクトもまた、非常に重要なものとなっていました。愛に溢れるまなざし、怒りにかられて突き刺さってくる視線、すべて感情は目に表現されます。そして、そのまなざしはどんな言葉よりも雄弁であるのかもしれません。

父親は娘に問います。「雪はどんな音を立てて降ってるんだい?」
娘は答えます。「雪は音を立てずに降る。すべての音を吸収して、世界を沈黙させる」

彼女はまるで音を立てて降る雪のような存在でした。

映画館は闇に包まれ、一条の光が放たれ、そして世界は沈黙します。


ビヨンド・サイレンス(JENSEITS DER STILLE)
96年ドイツ作品
監督:カロリーヌ・リンク
出演:シルビー・テステュー タティアーナ・トゥリープ ハウィー・シーゴ エマニュエル・ラボリ ほか

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「テルミン」


僕が15年以上愛聴しているビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」というアルバムの中でも、特にお気に入りの「駄目な僕」という曲の間奏で流れる奇妙な音色のソロは、ずっとコーラスにエフェクトをかけているものだと思っていたのが、そうではなく、テルミンという楽器によるものだと知ったのは数年前のこと。この世界初の電子楽器テルミンの発明者であるロシアの科学者レオン・テルミンの、テルミンの音色以上に不思議で奇妙な人生に迫ったドキュメンタリー作品。カーネギー・ホールでテルミン演奏の公演をするくらいに名声が高まっていた最中にソ連当局によって拉致され、処刑されたのだと西側世界では思われていた男が、実は盗聴器の開発など、KGBのスパイとして活動していた、というテルミン博士の数奇な運命は、端的に言ってしまえば、東西冷戦構造の狭間で翻弄されたひとりの男の悲劇だと言えるのでしょうが、映画ではまったく描かれていない、スパイ活動をしていたことが西側にバレてしまい、KGBを解雇された後(ニューヨークに現れるまで)の彼の人生も気になりました。

海外のドキュメンタリー作品を観て、いつも感心するのは、情緒的な要素を極力排して(もちろん再現ドラマなどあるはずもない)、あくまで、当時の映像や資料、関係者の証言等を淡々と積み重ねることによって実像に迫り、浮かび上がらせようとする手法です。ただし、この「テルミン」に関しては最後の最後に、テルミン博士と、彼の以前の弟子であり、恋人でもあったテルミン奏者クララ・ロックモアの再会をセッティングするという演出がされてはいます。しかし、このことによって、作品にひとつの方向性が生まれ、ラブ・ストーリーとして完結した、という意味でも、粋な計らいだったと言えるでしょう。


テルミン THEREMIN:AN ELECTORONIC ODYSSEY (93年アメリカ作品)
監督:スティーヴン・M・マーティン
出演:レオン・テルミン クララ・ロックモア ロバート・モーグ ブライアン・ウィルソン ほか

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「渦」

今まさに、真っ二つにぶった切られようとしている深海魚がストーリーを語り始める、という奇妙な設定に加えて、その冒頭は生々しい中絶手術のシーンであるというだけで、観る者の拒絶反応を引き起こすのに充分な作品でしょうが、さらに物語はどんどんエスカレートしていきます。主人公のビビアンはただでさえ、中絶手術後で神経が参っている状態のところに、自身が経営するブティックの経営難を知らされて、さらにその夜、不安感を抱えたまま車を運転していて、謝って男を轢いてしまい、そのまま逃げてしまいます。こんな悪夢のような舞台装置のなかから、より不可思議な運命と偶然の巡り合わせによって一条の光が放たれ、魂の救済がもたらされるラストに至っては、冒頭で感じたのとは違う、また別の感情が湧き上がってきて、意外な感銘を受けることになるでしょう。轢き逃げされて死んだ男は、近所付き合いが全く無く、親類もノルウェイにいる息子ひとり(彼が後半の展開の鍵を握る)だけ、というシチュエーションにすることによって、追い詰めていく刑事と逃走する女、というありがちな刑事事件サスペンス的な要素を排除し、代わりに、罪の意識と不安に苛まれる主人公の苦悩を、言葉ではなく、多用される水飛沫のイメージとブルーを基調とした映像で表現していきます。ただし、その寒々とした映像世界が徐々に別の意味合いを帯びていくところに、この作品の意外性と感動があると言っていいでしょう。「光り輝く暗い悲劇」とは、この作品に対する、デニ・ビルヌーブ監督自身のコメントですが、ひとつの不幸な出来事も長いスパンで考えると、次にやってくる幸福への準備段階である、という風に捉えることができるのではないか、という印象を作品から感じました。

2つの死を介して、2人が出会い、もうひとつの生の誕生を予感させる。
なんとシンプルで美しい話ではないか。


渦 MAELSTROM (2000年カナダ作品)
監督:デニ・ビルヌーブ
出演:マリ・ジョゼ・クローズ ジャン・ニコラス・ペロー ステファニー・モーゲン・スターン ほか

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「バニラ・スカイ」


いつもと同じ時間に、ステレオからレディオヘッドの「Everything In Its Right Place」が流れ、いつもと同じように身支度をして、フェラーリに乗って仕事に出かけていく。しかし、何かがおかしい。何かが違う。タイムズ・スクエアまで辿り着き、デヴィッドは気づく。誰もいない!

幼くして両親を亡くしたものの、莫大な遺産を相続して、雑誌をいくつも持つニューヨーク大手出版社の若き社長であるデヴィッドはルックスにも恵まれ、女性たちとは気ままな関係を続けている。ある日彼は、バースデー・パーティーで、友人が連れてきたスペイン人ダンサーのソフィアと運命的な出会いをする。プラトニックな一夜を過ごしたあと、彼女の「人は人生をいつでもやり直すことができるのよ」という言葉を胸に、今までにない気分の高揚を感じながら、出勤するため車に乗り込もうとする直前、恋人のジュリーが現れ、何も知らない(考えていない?)彼は誘われるままにジュリーの車に乗り込み、すると嫉妬心に苛まれ、激昂した彼女は車ごと無理心中を図る。彼は奇跡的に助かるものの、自慢の美貌は醜く変形し、日常生活もまともに送れなくなり、やがて現実と夢とが交錯し始める。その一方で、役員たちは彼の会社を乗っ取ろうと画策し、彼自身には殺人容疑がかけられる・・・

この作品はよく知られているように、アレハンドロ・アメナーバル監督のスペイン映画「オープン・ユア・アイズ」のリメイクです。比較してみると、ストーリーはもちろん、シーンによっては、画面設計までそのまま採用した、オリジナルにかなり忠実な作りで、同じスコアを、違う指揮者とオーケストラを使って再現させたような趣です。しかし、受ける印象はかなり違います。ドライでシニカルな「オープン・ユア・アイズ」に対し、「バニラ・スカイ」では登場人物をオリジナル作品よりもおしなべて良いキャラクターとして描き、現実と夢とのギャップを縮め、同じエンディングではあっても、その後に明るい未来を予感させます。また、主人公が高所恐怖症であるという設定を加えることによって、この物語を一青年の成長の過程を描いたものとして位置付けられ、「オープン・ユア・アイズ」では唐突に思われた、ビルの屋上のシーンでも、当然そうなるべき物語の結末としての説得力が与えられたのではないでしょうか。

監督のキャメロン・クロウが、元「ローリングストーン」誌のロックライターだったこともあるのか、曲によってそのシーンの意味がある程度分かるような趣向にもなっていて、現実と夢の境目ではREMの「Sweetness Follows」を使い、デヴィッドが見舞われる苦難と、その後の救済が暗示され、彼の葬儀で流れるスピリチュアライズドの「Ladies and gentlemen we are floating in space」のなかでは、"All I want is a little love to take the pain away "と歌われ、デヴィッドのもはや言葉にできない想いを代弁します。また、ボブ・ディランの曲がかかったあとに、ディランのアルバム・ジャケットの再現シーンが出てくるのも、いかにもロック・ファンのクロウらしい遊び心が感じられました。

顔を失ってみて、いままで自分がいかに表層的な事物に囚われていたかということに思い当たりながらも、やはりそこに戻らざるをえない人間の悲しさ。冒頭のタイムズ・スクエアのシーンを始め、アメリカ映画ならではの、物量にものを言わせた感もある「バニラ・スカイ」ですが、それ故に、オリジナル以上に空疎な現代人の肖像が際立つこととなったのは、図らずとはいえ、興味深いことのように思われます。


「バニラ・スカイ」(VANILLA SKY)
2001年アメリカ作品
監督:キャメロン・クロウ
出演:トム・クルーズ ペネロペ・クルス カート・ラッセル キャメロン・ディアス ほか

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「A.I.」


子供を病によって失いかけている夫婦。絶望する妻の姿を見かねた夫は、親を永遠に愛するという感情をインプットすることが出来る、子供ロボットを代替品として与えることを思い付く。最初は抵抗を感じていた母親も、日常的にロボットのデイビッドと接することによって、彼に愛情に似たものを感じ始め、また植物状態となって病院に閉じ込められたまま帰ってこない息子の不在という寂しさもあって、デイビッドを自分の子供として迎えるために、母親(→父親ではないのはポイントだと思う)に対する永遠の愛をインプットする決意をする。このまま上手くいくかに思えたこの関係も、不治の病かと思われていた夫婦の本当の息子が奇跡的に回復してからは、利害関係と愛情のバランスが崩れだし、予期せぬ出来事や不幸な誤解の数々が重なって悪循環が始まり、ついにはデイビッドは両親から見放され、森に置き去りにされてしまう。彼は自分が人間ではなくロボットだから棄てられたのだと感じて、以前(仮の)母親から聞いていたピノキオの物語のように「青い妖精」を見つけることで、本物の子供になることができて、母親からの愛を再び得ることもできるのではないかと思い込み、「青い妖精」探しの旅に出て行くのだが・・・・・

「ピノキオ」とサイエンス・フィクションの世界を巧みに脚色した「A.I.」は、意外にもスピルバーグにとっては初めて<未来>を扱った作品になるそうです。彼の描く未来像がどの程度のビジュアル世界を提示しているのか、というのもこの作品に対する大きな興味でした。実際、海底に沈んだマンハッタンのシーンなどは、スピルバーグ+アンブリン+ドリームワークスの技術力の高さを見せつけられるような気がしました。と同時に、何か映画館ではなく、アミューズメントパークにでも来たような錯覚に陥るような描写もスピルバーグならでは、という印象も僕は受けました。原案はスタンリー・キューブリックだったという話はあまりに有名で、キューブリック自身によって映画化されていたら、という叶わぬ想像も含めて、観る人によって賛否両論は分かれるでしょうが、今後も何かにつけ映画ファンの間で採り上げ続けられそうな作品です。僕自身はといえば、人間のエゴによって造られ、人間のエゴによって棄てられ、それでも母親を執拗に愛し求め続ける、ひたむきなデイビッドの姿には涙を禁じ得ませんでした。愛するものに愛されない悲劇がここでもまた繰り返されるわけです。

「あの」シーンで終わってもいいのではないか?という意見が一部にあります。確かに、あの場面でお終いにすると、映画自体はスマートなものになるかもしれませんが、作品のエゴによって、デイビッドが切り捨てられることになってしまうのだと思うと、スピルバーグとしてはそこで止めるわけにはいかないと感じたのではないでしょうか?確かに、後半の展開には辻褄合わせも含め、ややドタバタしたところはありましたが、夢に対する強い希求心がこの作品の大きなテーマのひとつになっていることを思えば、あのエンディングもすんなり受け入られるような気がします。決して眠らない、つまり決して夢を見ることはないロボットであるデイビッドは、だからこそ人一倍(←皮肉な言葉ですね)夢を追い求めるのかもしれません。観終わった後、僕はこう願わずにはいられませんでした。

おやすみ、デイビッド。よい夢を。


「A.I.」(A.I. ARTIFICIAL INTELLIGENCE)
2001年アメリカ作品
監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演:ハーレイ・ジョエル・オスメント ジュード・ロウ フランシス・オコナー ジェイク・トーマス ほか

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「リリイ・シュシュのすべて」 (2001年日本作品)
監督:岩井 俊二
出演:市原 隼人、忍成 修吾、伊藤 歩、蒼井 優、大沢 たかお、稲森 いずみ ほか


公開前から噂されていた、「いじめ」「インターネット」「援助交際」といったキーワードから、これまでの岩井俊二のイメージを覆す作品になり得るのでは、という予想はついていたわけですが、と同時に「打ち上げ花火」や「ラブレター」といったこれまでに築き上げてきた岩井ワールドをそう簡単に手放すわけはないだろう、とも感じていました。

予想はある意味では当たっていました。今回の作品は全編デジタルビデオカメラで撮影されているのですが、テレビ畑出身で、これまでのフィルム作品もどちらかいうとビデオ的な質感を持っていた監督だけに、デジタルカメラへの移行もスムーズに行われたのか、意外なくらいこれまでの作品と違和感がなく、その耽美な映像世界は健在です。「リリイ・シュシュ」と同じく、デジタル・ビデオカメラで撮られた映画というと、ラース・フォン・トリアーらが提唱した「ドグマ95」の一連の作品が思い起こされますが、あちらは撮影に様々な制限を課すことにより、根源的でリアルな映画表現を目指そうとしたのに対し、岩井俊二はあくまでプロフェッショナルな観点からビデオを用いて、映画というメディアのネクストレベルを模索しているかのように感じられました。その一方で、美麗なデジタル・パノラマ・ワールドの中で語られる物語は、残酷で救いようのないもので、これは僕の予想を大きく覆すものでした。女性を美しく撮ることに長けている、と言われてきた岩井監督が、サディスティックとも言えるくらい女性キャラに対して冷淡になれたのは驚いてしまったくらいで、露骨な描写こそないものの、そこで行われている行為ははっきり認識できるので、観ていてツラくなってくることもしばしばでした。とにかく、これまでの彼の作品からは想像も出来なかったようなハードな内容ですが、同時に何かひとつ突き抜けたような手応えも感じさせます。

この映画で描かれている中学生の世界がリアルなものであるかどうかはともかく、僕が思ったのは、今や自分の部屋とパソコンと携帯さえあれば、親や教師から切り離された、完全に子供だけの小宇宙を形成することが可能だということです。そこでは大人の世界とは別の倫理観が生み出され、あとは実際の宇宙のように際限無く膨張していきます。そこにコミットメントするどころか、その存在を感知することすら出来ない親や教師たちには怒りを感じてしまうほどですが、実際に彼等に何が出来るのかというと、進んでしまった文明を後戻りさせることが出来ないのと同じくらいの無力感に襲われてしまいます。

特に中盤以降は胸に突き刺さってくるような痛々しいシーンの連続で、大きく心は動かされるものの、所謂「感動」とは別の種類の揺り動かされ方であるうえ、それが美しい映像と叙情的な雰囲気とともに次々と繰り出されるために、自分の中で感情をどう処理していいのか分からずに混乱してしまうほどでした。僕が観た劇場では後半すすり上げっぱなしの方がいましたが、あれは決して感動して泣いているのではなく、そうでもしなければ感情の持って行き場が無かったからなのではないかとさえ思いました。

クライマックスは映画的なカタルシスをとりあえず観る者に与えはしますが、主人公の行く手には更なる闇が待ち受けているであろうことは明白です。チラシにも採用された、空を飛翔するカイトのイメージのように、この映画の少年少女達の魂が解放され、救われるときはやって来るのでしょうか?膨大な情報量を詰め込んだ映像の間隙をぬって、ドビュッシーのピアノの調べがまるで涙の雫のようにこぼれてくるのでした。



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「イディオッツ」 (1998年デンマーク作品)
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:ボディル・ジャージェンセン、ジェンズ・アルビナス、アンヌ・ルイズ・ハッシング、トローリス・リビ、ニコラジ・リー・カス ほか


ラース・フォン・トリアー監督が「奇跡の海」と「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の間に撮った作品でありながら、日本では「ダンサー〜」より公開が遅れたのも納得の、非常にアンモラルかつ挑発的な問題作です。先にあげた2作品において、主人公の女性があまりにも愚かだ、という意見を何回か聞いたことはあり、たしかにそういう部分は僕も感じはしましたが、何よりトリアーが追求したかったのは彼女たちの純粋性とそれが生み出す奇跡であり、それを極端なまでに推し進めた為、愚かな印象を観客に与えたところもあるのでしょう。ある意味、彼女たちはドストエフスキーの「白痴」の主人公、ムイシュキン公爵に似たキャラクターといえるのかもしれません。

「イディオッツ」においては、より「愚かさ」と「純粋性」が緊密に結び付けられ、追及されていきます。

物語はカレンという訳あり(その訳はエンディング近くで明かされる)にみえる中年女性が「イディオッツ」と名乗る、障害者の振りをしながら共同生活する奇妙なグループとレストランで同席し、その後、共に行動していくことから始まります。
「イディオッツ」たちはレストランで、工場で、プールで、グループのリーダーの伯父の家で、狼藉の限りをつくします。たしかに、社会の偽善を暴いていく彼らの行動は痛快ではありますが、本物の障害者たちと同席することになった場面では彼ら自身の偽善もまた暴露されます。愚かでいることは素晴らしい、という彼らのロジックは、彼らのコミュニティの内なる世界ではなく、個人個人が属する社会や家庭においては無に帰すのを見ていると、彼らの哲学にも脆弱さを感じずにはいられません。

既存の価値観を転覆させてはみても、新しいパラダイムやイデオロギーを提示しないことには、僕らが生まれてからずっと刷り込まれてきた(備わっていた?)モラルは再び起き上がってきます。

但し、僕は「イディオッツ」たちの行動がすべて無意味だとも思いません。彼らのような、社会の内なる告発者が存在することこそ、また健全な社会の証とも思えるからです。

ポップアート、ヌーヴェルヴァーグ、パンクロック・・・・・20世紀のアートのさまざまな分野においても、告発者達はいました。彼らが現在、そして未来に続く地平を切り開いたかどうかは分かりません。しかし彼らが、既存のアートの価値観を転覆させた瞬間の、一瞬の美を提示しえたこともまた事実でしょう。

「イディオッツ」という作品もまた、一瞬の美しさとその矛盾を内包しているといえます。

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2002年ベスト5


1. ロード・トゥ・パーディション

利権争いと自己保身ゆえの裏切りが横行する、倫理なきギャングの世界における唯一の倫理のごとく、父親たちはそれぞれのやり方で息子を守ろうとする。ありふれた物語とありふれた風景から、驚くほどの緊張感と詩情に溢れた映画を作り上げてみせたサム・メンデス監督には、題材に左右されない確かな手腕と才能が感じられる。ジュード・ロウがホテルの部屋にいるトム・ハンクスを急襲するくだりは今年最も印象的なシークエンス。

2. フロム・ヘル

ヒューズ兄弟が「切り裂きジャック」を題材にして制作した「フロム・ヘル」は、史実に対する忠実さよりも、劇画的な面白さが追求される。ジョニー・デップ演じる警部が、アヘン窟で煙に包まれながら、幻覚作用を頼りにジャックを追い詰めていくという設定がユニーク。妻を失った彼の悲しみが、映画の通低音となって、やがて煙の向こうからもうひとつの主題として立ち現れてくる。

3. ザ・ロイヤル・テネンバウムズ

家族の再生を描く、この端正なコメディに何か教訓があるとすれば、規律や倫理感は必ずしも幸福をもたらさないということだろうか。ベン・スティラーやグウィネス・パルトロウを始めとするキャスティング、そしてラコステやアディダスといったスポーツブランドの衣装など、ダサさと格好良さの間の線上を狙った、ウェス・アンダーソン監督のスマッシュが見事に決まった。

4. アモーレス・ペロス

5. ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

ジョン・キャメロン・ミッチェルの自作自演によるこの作品は、変身願望と自己探求という、一見矛盾するかに思える2つのテーマを、両性具有を体現した70年代グラム・ロックへのオマージュとともに描いていく。性転換を試みたロック・スター、ヘドウィグが失われた愛と盗まれた音楽を取り戻すために出た全米行脚の末に、自分自身というものは見つけるものではなく、自分自身にならなければならない、という結論に辿り着く。

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「天才マックスの世界」 (1998年アメリカ作品)
監督:ウェス・アンダーソン
出演:ジェイソン・シュワルツマン、オリビア・ウィリアムズ、ビル・マーレイ ほか


課外授業ばかりに夢中になって、放校処分寸前の15歳の(元天才?)少年が、未亡人である女教師に一目惚れしたことをきっかけに、これまで知らなかった新しい世界を経験していく・・・。昨年「ロイヤル・テネンバウムズ」が日本でも公開されて話題となったウェス・アンダーソン監督の98年の作品ですが、既にこの時点で、彼の作風は確立されていたことが確認できます。書き割りのような、どこか非現実的な雰囲気を醸し出す演出空間において、ひとりの少年の成長物語をコメディ・タッチで綴っていきますが、爆笑モノというより、クスクス笑いを誘う飄々とした風貌のなかに、時折滲ませるノスタルジックなムードに心を打たれます。クリエイションの名曲Making Timeに始まり、キンクス、フー、フェイセズといった往年のブリティッシュ・ロックで固められた音楽は、チェンジ・オブ・ペースの道具として使われ、ドラマを加速させる役割を担っているように感じられました。日本では劇場未公開のビデオリリースのみの作品ですが、レンタル・ビデオ店をハシゴしてでも探しだす価値のある作品。個人的には「ロイヤル・テネンバウムズ」以上に気に入りました。

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「ドッグ・ショウ!」 (2000年アメリカ作品)
監督:クリストファー・ゲスト
出演:キャサリン・オハラ、ユージーン・レビー、パーカー・ポージー、クリストファー・ゲスト ほか


ドッグ・コンテストに全米各地から参加する人々の後を追った、擬似ドキュメンタリーの手法をとって制作されたユニークな作品。旅行く先々で、奥さんの昔のカレに出会ってしまう夫、自分たちの夫婦生活を見たことによってショックを受けたと思い込み、犬に精神分析を受けさせる夫婦、犬に対する知識はゼロ、すべての話題を下ネタに持っていこうとする実況解説者など、コンテストそのものよりも、飼い主である人間の滑稽で愛すべき姿を、誇張されたリアリティと最後までテンションの落ちることのないスピーディーな展開でもってユーモラスに描いていく。感傷的な部分など一切挟まず、あくまで笑いに拘りぬいたこの作品は、ハリウッド大作やアート志向のシネマでは感じられることのない、清々しい後味を残してくれる。

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「アレックス」 (2002年フランス作品)
監督:ギャスパー・ノエ
出演:モニカ・ベルッチ、ヴァンサン・カッセル、アルベール・デュポンテル ほか


抑えの効かない創造的欲求の結果としてそうなる、というより、不快にさせることそれ自体にギャスパー・ノエの意図はあるように思える。そして、テーマがテーマだけに、不快なものをあくまで不快なものとして見せることにも(ある程度)納得はいく。なぜこのテーマを扱わなければならなかったのか?という疑問に対する答えは、なぜこの映画を観るのか?という問いかけに対する答えとおそらくは同じだ。僅か10余りのシーンで構成されているこの作品は、不安感を煽り立てるようなサウンドトラックと不安定なカメラワーク、そして容赦のない暴力描写によって生み出される尋常ではない緊張感が、観客に傍観者たることを一時も許さない。「時はすべてを破壊する」。映画はその「時」を自在に操り、過ぎ去った、そしてまた、決して来ることのなかった幸福のイメージを描いて幕を閉じる。しかし、トンネルの出口はどこにもない。

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「ハネムーン・キラーズ」(1969年アメリカ作品)
監督:レナード・カッスル
出演:シャーリー・ストウラー、トニー・ロー・ビアンコ ほか


看護婦長として病院で働き、家でも病気がちな母親の面倒を看ているマーサは、友人の強い勧めもあり、文通クラブに入会する。そんな彼女にレイモンドという男が手紙を送ってくる。何度かのやりとりの末、ふたりは出会い、恋に落ちるが、やがて彼が結婚詐欺師であることに気付く。しかし彼女はあきらめきれずに、レイモンドの後を追い、彼の妹と偽って仕事の片棒を担ぎ、果ては殺人にまで手を染めるようになる。
詐欺のターゲット相手と関係を持ってしまうレイモンドに耐えられずに、諍いを起こしてしまうマーサの存在は、ビジネスライクに詐欺を遂行しようとするレイモンドの立場から見れば、はっきり言って邪魔にしか思えないのだが、それでも彼が彼女と行動を共にするのは、詐欺行為をする上での嘘偽りの姿ではなく、ありのままの自分を認め、受け入れてくれるマーサを傍に置いておきたいという弱さからのように見える。実際、この映画に登場する人物に共通する弱みとは、ひとりでいることに対する寂しさと恐怖だ。レイモンドはそんな弱みにつけこんで詐欺行為を働いていくのだが、自分自身もまた、そのことによって破滅に追いやられてしまう。しかし、愚かな行為を繰り返す彼らに、同情めいた感情を抱くことができるのもこの一点があるからだと思う。
マーラーの交響曲第6番がマーサの破滅への行進曲の如く、何度も使われるのが面白い。モノクロで、手持ちカメラを多用したドキュメンタリー的な乾いた演出が印象的で、現在のように直接的な描写ができなかった時代だからこそ、観る者の想像力に委ねるしかない部分が、むしろ恐怖心を煽る。ほぼ同時期に製作された「俺たちに明日はない」や、リチャード・フライシャーによる傑作「絞殺魔」と同じく、実在の犯罪記録を元に構成されている。

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「ミフネ」 Mifunes Sidste Sang (1999年デンマーク作品)
監督:ソーレン・クラウ・ヤコブセン
出演:アナス・ベアテルセン、イーベン・ヤイレ、イエスパー・アスホルト ほか


故郷と家族を捨てて、都会(コペンハーゲン)で違う人生を歩もうとしているクリステンは、仕事で成功を収め、勤務先の社長令嬢クレアと結婚するが、式の翌朝に父親の訃報を知らされて、実家の片付けと、知的障害を抱える兄ルードの面倒を見るために、数年ぶりに故郷へ舞い戻ることとなる。
荒れ果てた実家の惨状を目の当たりにしたクリステンは新聞にメイドの求人広告を出す。それを見てやってきたのは、退学処分になった弟とストーカーからの電話に悩まされているリーバという若い娼婦。やがて4人による共同生活が始まるが、実家に乗り込んできたクレアに、ひた隠してきた過去を知られてしまったクリステンは、妻と職を失ってしまう・・・
タイトルにもなっている三船敏郎は、クリステンとルードを結ぶ(三船敏郎を真似たクリステンのいい加減な日本語が笑える)、子供時代のヒーローであると同時に、彼が「七人の侍」で演じた、農民であることを隠して、侍になりすます菊千代というキャラクターが、都会人を装うクリステンと、娼婦であることを隠すリーバの隠喩になっているところがミソ。
ラース・フォン・トリアーらが提唱する「ドグマ95」の制約に則って制作された作品だが、殺伐とした作風が主流を占めるドグマのなかにあって、この映画はかなりの異色。というか、こっちが普通なのかもしれないが。過去から逃れようとして、故郷と家族を捨てた男が、故郷に戻り、たったひとりの家族である兄との交流によって、逆に過去から解放されていくという、癒しと再生の物語。ミステリーサークルや謎のオジサン演奏家集団の存在も楽しい。

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「シッピング・ニュース」 (2001年アメリカ作品)
監督:ラッセ・ハルストレム
出演:ケビン・スペイシー、ジュリアン・ムーア、ジュディ・デンチ、スコット・グレン、リス・エバンス ほか


幼い頃からコンプレックスを抱えて生きてきた、さえない中年男クオイルは新聞社でインク係として働いていた。ある日、彼がガソリンスタンドにパーキングしていると、ボーイフレンドと喧嘩していたペタルという女性が、いきなり彼の車に乗り込んできて、車を出すよう促される。そのまま二人は暮らし始め、やがて一女をもうけるまでになった。しかし、ペタルは彼のことを裏切り続けたあげくに、自殺したクオイルの両親の葬儀の当日に、男と駆け落ちしてしまい、その途中、交通事故に遭い亡くなってしまう。

失意のクオイルを、兄の遺灰を引き取りに(盗みに?)きた叔母のアグニスは、自身とともに、クオイル家の祖先の地である、ニューファンドランド島に連れて行くことにする。その島でクオイルは、地元の新聞社の面接を受けるが、印刷工ではなく、港湾ニュース記者として雇われることになる。馴れない仕事に困惑する彼だが(見たものを何でも、見出し文句に換言しようと努力する姿が微笑ましい)、会社にはほとんど顔を見せず、海にばかり出ている社長や同僚たちの叱咤激励もあって、徐々にコツを掴むようになっていく。その一方で、娘が通う保育所を経営するウェイヴィという女性とも知り合い、お互いに伴侶を失った者同士ということもあり、子供も交えての付き合いが始まって、次第に惹かれ合うようになっていく。しかし、叔母のアグニスやウェイヴィ、そしてクオイルの祖先にも隠された過去があった・・・

またしても、「癒しと再生」という構造を持つ物語ではある。他者のなかに、自分と同じように傷ついたハートの存在を認め、ひとりぼっちではないという、どことなく肩の荷が下りたような感覚を共有する。また、失意のどん底にあっても、決して引篭ったりはしないで、あえて人々の間に身を置くことによって、自身の意思とは無関係に前に運ばれていくような感覚。傷の舐め合い、と見えないこともないが、少なくとも、それで前へ進んでいこうとする勇気を分かち合うことができるのならば、方法は何であっても構わないのではないか。

美しい自然の風景とCGをミックスさせた映像は、ハルストレムの前作「ショコラ」でも見受けられたが、より手馴れた印象を受ける。落ち着いたトーンで全編が進行するために、何となく見過ごしてしまいそうになるが(僕はビデオだったので、何度も巻き戻して観た)、何気ないシーンでも、後のタネ明かしの複線になっていたりして、無駄な部分が全くない。端役にいたるまで、味のあるキャラクターとキャストが揃っていて、112分という上映時間が短く感じられるくらいだった。おそらく原作では、各人についてもっと詳細な書き込みがあるのだろう。押し付けがましさとは無縁ながら、含蓄の深さに、観た後もずっと想いを巡らせずにはいられない作品だ。「アカデミー狙いで制作されたのにノミネートすらされなかった映画」として世評は散々だったような気がするが、やはり映画は実際に観てみないと分からない。

蛇足だが、クオイルの娘が三人一役である理由は?

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「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」 (2002年アメリカ作品)
監督:スティーブン・スピルバーグ
出演:レオナルド・ディカプリオ、トム・ハンクス、クリストファー・ウォーケン、ナタリー・バイ ほか


映画館で観た「ゴールドフィンガー」に感化されたフランク・アバグネイルは、ジェームズ・ボンドと同じスーツをあつらえさせ、アストン・マーチンで都会を駆け抜けていく。そして、その夜ホテルに帰ったフランクの前には謎の美女が現れて・・・・・物語的には不必要にも思える、これら一連のシークエンスは、しかし、「インディ・ジョーンズ」シリーズの企画を映画会社から打診された際、「テレンス・ヤング監督とショーン・コネリーがコンビを組んでいた時代の007映画のような冒険映画を撮りたい」と答えたといわれるスピルバーグ監督の、ボンド映画に対するオマージュのように僕には映りました。この場面の背景に流れるダスティ・スプリングフィールドのThe Look of Loveが、「007/カジノ・ロワイヤル」に使われていた曲であり、その映画には、フランクと同じような、自称ボンドが7人も登場していたことを考えれば、いずれにしろ、スピルバーグはかなり意図的にこれらのシーンを挟み込んだに違いないと思うのです。もっと言えば、映画自体も、007に代表されるような1960年代へのオマージュである・・・という見方はやはり穿ち過ぎなのでしょうか。

順序が逆になりましたが、ストーリーを簡単に紹介していくと、父親の脱税行為によって、税務署に財産を奪われた挙句、両親が離婚してしまったことにショックを受けた高校生のフランクは家を飛び出し、パイロット、医者、弁護士など次々と身分を偽りながら、各地を転々とし、偽造した小切手を現金化していくことによって、大金を稼ぎ出していきます。彼が必要以上にお金に拘るのは、それを失ったことが、家族を崩壊に追いやったと思い込んでいるからであり、巨額の富を得ることによって、再び両親と元の生活に戻れると考えているからです。そんな彼を執拗に追うのが、FBIのベテラン捜査官カール・ハンラティ。彼もまた離婚を経験しており、一人娘とは離れ離れに暮らしています。立場は違っても、同じく小切手偽造に精通しており、失われつつある家族を追い求めているという点でも共通するふたりは、やがて追う者追われる者という関係を超えた感情をお互いに抱き始めるようになります。

ある程度の戯画化はあるにせよ、この作品の中で描かれる詐欺行為にしろ、FBIの追跡にしても、コミカルなまでの大雑把でテキトーな印象であり、それは60年代という時代背景のなせる業なのであれば、この映画は父と子というテーマとともに、やはり60年代という時代そのものを主題としていると僕は考える訳です。

スピルバーグが対象に向けるカメラはどこまでも明るく優しさに満ちていて、それが脱税犯の父と詐欺師の息子であっても、良い面だけを見つめていこうとするかのようですが、彼らに当てたライトが作る影の部分をそれとなく観る者に意識させる点はさすがです。主演のディカプリオは、実年齢より若いキャラクターの向こう見ずな鼻っ柱の強さとそれとは裏腹の壊れやすい心情を体現して、「ギャング・オブ・ニューヨーク」とは打って変わって、水を得た魚の如くですし、トム・ハンクスは、「ロード・トゥ・パーディション」同様、言葉ではなく、行動により規範を示す父親像を巧みに演じており、3者とも、それぞれが得意とするフィールドを難なく披露してみせた、そういった部分では、余りに手堅い作品と言えなくもないですが、真っ当過ぎるくらいに真っ当な映画作りと恥ずかしげもなくストレートな感動を呼び覚ましてくれるという点においては、今時珍しい、逆にこれは非常に個性的な作品ではないか?とも思えてくるのです。

スピルバーグ映画の常連、ジョン・ウィリアムズによるスコアは、ここでは映画の設定に合わせてか、軽快なジャズ風(ビッグ・バンド風?)の音を聴かせてくれており、いつもの情緒過多な音楽とは違って好感が持てました。

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「スパイダー 少年は蜘蛛にキスする」 (2002年仏・カナダ・英作品)
監督:デビッド・クローネンバーグ
出演:レイフ・ファインズ、ミランダ・リチャードソン、ガブリエル・バーン ほか


プラットホームから一人の男が降り立つ。挙動不審で、明らかに精神を病んでいる様子が見受けられる。道端に落ちている紐に異様な興味を示す彼が辿り着いたのは、さびれた療養施設。部屋に入ると、カバンから一冊のノートを取り出し、誰にも見つからないように、それをカーペットの下に隠して、夜毎それを取り出しては、おそらく彼にしか分からないであろう象形文字のようなもので何やら書き込んでいく。やがて彼の思考は幼い頃に起こった、忌まわしい出来事へと遡っていく・・・

言葉に不自由な主人公デニス(=スパイダー)の代わりに、彼の心象風景を映像によって辿っていく構造になっていますが、そのことによって、精神分裂病患者(クレジット部分のロールシャッハ・テストのような壁模様によって、そのことが示唆される)の思考回路の仕組みが非常に分かりやすいものとして提示されます。その反面、謎解きの面白さには幾分欠けるような気もしないでもないですが、過去と現在、現実と虚構(=妄想)が入り乱れる構成は複雑にしようと思えば、もっと出来たわけで、それをあえてしなかったのは、監督の意図は謎解きにあるのではなく、観客には中途で謎がそれとなく分かるようにしながらも、(過去も現在も)最後の瞬間まで気付かずに、悲劇を繰り返そうとするデニスに対する、どう仕様もないやり切れなさと哀れみに近い共感を抱かせるところにあるのではないかと考えられます。また、クローネンバーグお得意の奇妙なクリーチャーは今回出てきませんが、それだけでなく、「戦慄の絆」や「クラッシュ」などの作品に見られた、この監督独特の冷徹なタッチも緩和されていることからも、クローネンバーグのマイノリティに対する優しい眼差しが感じられるように思いました。

映画の中で描かれる現実と虚構のブレンド具合については観る人によって意見が異なるに相違なく、僕自身は、療養施設のシーン以外はすべてデニスの頭の中でのみ展開された事象なのではないか?と解釈したりもしたのですが、考えてみれば、この映画の大部分はデニスの心象風景を映像化したものであり、肝心のデニス自身が現実と虚構の区別がついていないということであれば、それを観る我々にどれが現実であり、どれが虚構であるかなど分かるはずもなく、また分かる必要もないのだと思い直して一人納得した次第。

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「害虫」 (2002年 日本作品)
監督:塩田明彦
出演:宮崎あおい、田辺誠一、りょう、沢木哲、蒼井優、石川浩司 ほか


父親のいない家庭で育ったサチ子は、母親が恋愛関係のもつれから自殺未遂を起こして以来、学校には通っていない。朝は制服に着替えて、とりあえず学校に行くフリをして家を出るが、その後は夕方まで街をブラブラしながら時間を潰して毎日を過ごしている。やがて、不良少年のタカオや路上生活者のキュウゾウと知り合い、彼らと一緒に悪事にも手を染めていくようになるが、タカオがトラブルに巻き込まれて、姿を消したために、再び学校に通い始める。友人の夏子の助けや新たにボーイフレンドが出来たこともあって、少しずつ学校にも馴染んでいくように見えたサチ子だが、彼女には、小学校時代の担任教師との秘められた関係が噂されていた・・・・・

これはすごい。何気ないようでいて、いちいち含みと引っ掛かりのあるシーンが積み重ねられることによって、暴発寸前のような緊張感が画面全体に漲っている。言葉ではなく、映像によってストーリーを物語っていくスタイルを採っており、その映像表現自体も、感情よりは感覚的なものを優先したものであり、分かりづらい部分も散見するが、追って観ていくと、大筋は理解できるようになっているので、難解なアート映画という罠に陥ることなく、謎解き的な面白さもあって、観ていて決して退屈はしないようになっている。たしかに、いくつかの点に関しては(例えば、サチ子と小学校の担任教師との間には何があったのか?等)、具体的な説明は最後までなされることがないのだが、それも観る者の想像によって補える部分に留められており、むしろ、そういった部分があることによって、キャラクターや映画に、ミステリアスな奥行きをもたらすことに成功していると思われる。

中学生を主人公としているだけでなく、両作品とも、蒼井優が出ていることもあって、岩井俊二の「リリイ・シュシュのすべて」との共通点もいくつか見受けられるが、実際の中学生にも起こり得るような、悲劇としてのリアリティに関しては「害虫」の方が優っているし(「リリイ・シュシュ」に描かれる世界はとても中学生のものには見えない)、情緒的な描写や音楽を意識的に排して、ただひたすら乾いた描写が淡々と続いていく分、衝撃度も高いものになっていると思う。しかしながら、両作品に共通する、この殺伐とした雰囲気はどうだろう。息が詰まってしまうような閉塞感は、中学生だけでなく、今の日本全体を覆うものだと言っていいのかもしれない。

虚ろで冷めた部分と、子供らしい無邪気さを見事に使い分けた主演の宮崎あおいの演技が素晴らしく、ラストの意を決したような、彼女の毅然とした表情によって、奈落の底に落ちる一歩手前で、映画が救われたように感じた。音楽は必要最小限に留められてはいるが、後半にドラマが加速する合図であるかのように、ナンバーガールの“I Don’t Know”が効果的に使われる。

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「青い夢の女」 (2000年フランス、ドイツ作品)
監督:ジャン=ジャック・べネックス
出演:ジャン=ユーグ・アングラード、エレーヌ・ド・フジュロール、ミキ・マノイロヴィッチ、ヴァレンティナ・ソーカ ほか


精神分析医に診察を受けている精神分析医。この冒頭場面の設定だけでも興味を惹かれずにはいられない。(患者側の)分析医ミシェルが語り始める。ここ数ヶ月彼の元を訪れている、若く美しい人妻オルガ。彼女は夫の暴力によってしか愛情を確認することのできないマゾヒスティックな傾向を持ち、窃盗癖もあるようだ。宝石店での万引き容疑で拘束された彼女のために、ミシェルは偽証してしまう。こんな女とはもう関わり合いにならないほうがいいと思ってはいるが、そのアブナい魅力に抗うことも出来ない。そしてまたオルガは診察室にやってきて、ソファに横になり、例の如く刺激的な夫婦生活について語りはじめる。いつの間にか眠りに落ちてしまった彼が、不吉な夢から覚めると、そこには死体となったオルガがいた・・・・・

死体を隠そうとするミシェルの悪戦苦闘ぶりは、ヒッチコックの「ハリーの災難」を想起させて、サスペンス的緊張というよりは、むしろブラックな笑いを醸し出す。性的倒錯を孕んだ殺人事件に始まり、同僚からくすねたお金で診察料を払う女教師、ダッチワイフを抱えて、夜毎墓場を徘徊するDJ、ゲンズブールに感化されて、お札を持つと燃やさずにはいられなくなるホームレスなど、臨床心理学のサンプルにはうってつけの魅力的なキャラクターが続々登場するとなれば、極端な作風にすることも可能だったに違いないが、「ディーバ」や「ベティ・ブルー」で知られるベネックス監督は、ストーリーに破綻を来たすことのないよう周到に計算された、程好く抑制を効かせた演出に徹しており、ひとつの事件を通して、ミシェルが医師として成長し、また真実の愛に目覚めていく過程がよく分かる設計となっている。

「ベネックス・ブルー」と呼ばれる、淡いブルーを基調とした映像美は今作でも健在だが、その反面、ポルシェやキリンのオモチャ、ハイヒールやソックス(「そのソックス、ヘンよ」)といった小道具には鮮やかな原色を使って、象徴的な意味合いを持たせているのは実に巧みであり、そういった事物が、デビッド・リンチ的不可解な曖昧さに繋がるのではなく、目を凝らせば自ずと答えが浮かび上がってくる仕掛けになっているのも好感がもてる。決して先鋭的な作品ではないが、愛すべき中庸の美が感じられる。

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「トゥー・ウィークス・ノーティス」 (2002年アメリカ作品)
監督:マーク・ローレンス
出演:ヒュー・グラント、サンドラ・ブロック、アリシア・ウィット、デイビッド・ヘイグ ほか


NHK-BSで不定期に放映されている「アクターズ・スタジオ・インタビュー」は、日本にいるとなかなか伝わってこない、スターの演技論から私生活にいたるまでの、飾らない生の言葉を聞くことのできる貴重な番組で、僕も時々見ているのだが、今年の3月に放映されたヒュー・グラントの回はとても面白かった。出演作ばかり観ていると、彼がオックスフォード大出身であることを忘れてしまいそうになるが、この番組における、ウィットに富みながらも辛辣で、表情ひとつ変えずにジョークを連発するその姿には、モンティ・パイソンやレイ・デイビスにも通じる、由緒正しき英国人のセンス・オブ・ユーモアを垣間見るような気がして、ますますヒュー・グラントのことが好きになってしまった。

そのインタビューの中で、現在ニューヨークで撮影中(だから、ニューヨークにあるアクターズ・スタジオの番組に出演した訳ね)だと語っていのが、この映画「トゥー・ウィークス・ノーティス」であり、たしかに番組出演した時と髪型が一緒だな、とかヘンなところで感慨を抱いてしまったりもしたが、それはともかくとして、僕がヒュー・グラントのファンであることを差し引いても、文句無しに楽しめる作品に仕上がっていたことが何よりも嬉しい。少なくとも、「ブリジット・ジョーンズの日記」や、悲惨だった「恋するための3つのルール」よりは断然良い出来だと思う。観た後に何も残らない、あるいはリアリティの欠如、といった弱点もいくつかあるものの、ラブ・ロマンスというより、気の利いたオシャレなコメディとしてのクオリティは抜群で、ヒュー様(古い!)とサンドラ・ブロックという一見ミス・マッチに思えるコンビを逆手にとって、地位も信条もかけ離れた二人をいかに結びつけるか、という点に腐心したのが、逆に良い結果に繋がったような気がする。いつもよりボケ度は高めながらも、相変わらず「ちょっと間抜けなお人好し」を演じさせたら、並ぶ者のいないヒュー・グラントはもちろん、プロデューサーも兼ねていながら、決して自分を美化したりはせず(何といっても、クライマックスの高速道路における渋滞シーンのサスペンスは、彼女がお腹を下したことから始まっているのだ!)、ヒュー・グラントに花を持たせたサンドラ・ブロックも素晴らしい。熱心な映画ファンであればあるほど、この手の作品は軽視しがちなのかもしれないが、意外な拾い物モノであり、これを観逃すのは勿体ないと思う。お決まりの結末を迎えたかに思わせておいて、さりげないエピソードを付け加えて、最後まで笑わせてくれるあたり、監督・脚本のマーク・ローレンス(「デンジャラス・ビューティ」の脚本家)の確信犯的な才能も感じさせてくれる。

あくまで英国人であることとコメディに拘り、決して気に入ることがないからこそ、次こそはと思って演技を続けている、と語るヒュー・グラントの次回作は、出世作「フォー・ウェディング」や「ノッティングヒルの恋人」の脚本家リチャード・カーティスの初監督作となる「Love Actually」とのことで、これまた非常に楽しみだ。もうしばらくは、彼が自身の演技に満足しないでいることを望みたい。

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「ソラリス」 (2002年アメリカ作品)
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:ジョージ・クルーニー、ナターシャ・マケルホーン、ジェレミー・デイヴィス、ヴィオラ・デイヴィス ほか


最初の15分くらいは、何が起こっているのか全く分からなかったうえに、(まさか、タルコフスキーを意識したわけではないでしょうが)非常にゆったりとしたテンポで展開されるので、思わず眠ってしまいそうになりましたが、そこを乗り越えれば、このテンポ感も含めて、この一風変わったシチュエーションのドラマに浸ることができました。『SFに近寄ることすらしなかったのは、このジャンルのハードウェア的な側面に、ぜんぜん興味が持てなかったからなんだ』と語るスティーヴン・ソダーバーグ監督だけに、SF映画を観るときのひとつの楽しみでもある、未来に関する新しい世界観のようなものを感じ取ることは皆無に等しいので、SFというジャンル映画を観に来た人にとっては肩透かしを食らうのは仕方のないことかもしれません。しかし、このある種、類型的であり、或いは貧相とさえ言えるような背景の裏には、この映画はSFではなく、ある一組の夫婦の物語であり、取り返しのつかない過去を取り戻すチャンスを与えられた時に、人はどう行動するのかということを、濃密なドラマとしてじっくりと描くことが目的であったように感じられます。それなら、SFでなくとも良かったのではないか?という指摘はある意味正しいといえますが、どんなジャンルの映画であっても、自身のカラーを刻印することが出来るとでもいうような、「アウト・オブ・サイト」以降、好調が続くソダーバーグの自信の表れを見るような気も個人的にはしました。この映画に見受けられるソダーバーグ印のひとつは、過去と現在のカットバックの手法であり、これを観て「アウト・オブ・サイト」のジョージ・クルーニーとジェニファー・ロペスのふたりがバーで話しているシーンと、その後のベッド・シーンを組み合わせたカットバックを想起した人もいるでしょうし、何より、ジョージ・クルーニーが失った妻を取り戻すという設定は、日本公開作としては前作にあたる(実際には、間に「Full Frontal」という作品あり)、「オシャンズ11」とまったく同じものであり、キャスティングも含めて、かなり意識的にやっているのではないかと考えたりもしました。

タルコフスキーとの比較は避けられないとはいえ、これは「惑星ソラリス」のリメイクというよりは、同じ原作本(スタニスワフ・レムの「ソラリスの陽のもとに」)の再映画化といったほうが正しく、同じ譜面を使って、別の指揮者とオーケストラが演奏するのと同じで、解釈が違うのが当たり前であり、むしろその違いを楽しむのが、本来の在り方ではないかと思うのですが、幸か不幸か、僕は学生時代に観た「惑星ソラリス」の内容をほとんど憶えていなかったので、「ソラリス」に対して、何の違和感も持たずに楽しむことができました。そういえば、忘れるということが結局一番美しく思い出すということだ、というようなことを川端康成の小説で読んだ記憶があります。これまた定かではありませんが・・・

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「ギャングスター・ナンバー1」 (2000年イギリス作品)
監督:ポール・マクギガン
出演:ポール・ベタニー、マルコム・マクダウェル、デヴィッド・シューリス、サフロン・バロウズ ほか


この映画の主人公には名前が無かったような気がする。もしかしてと思って、ネットで検索してみたのだが、どのサイトにも、彼の役柄は「ギャングスター」とあるだけで、名前についての言及はなかった。一緒に観に行った人は、具体的には思い出せないが、何らかの名前が呼ばれていたと言うのだが、真相はどうなのだろうか?もし知っている方がいたら是非教えて下さい。というのも、「俺は一体何者だ?」と自問自答する主人公に名前がないというのは象徴的であり、意図的なものがあるように思えてならないからだ。

若いチンピラであった主人公(=ギャングスター)に、ロンドンの裏社会に君臨するフレディ・メイズという男から声が掛かり、彼の元で働き始める。ギャングでありながら、イタリアン・スーツを難なく着こなす洗練されたマナーを併せ持ったボスに心酔するギャングスターは持ち前の行動力と恐れを知らない残忍性によって、メキメキ頭角をあらわし、フレディの片棒を担うまでになる。
しかし、フレディがカレンというクラブ歌手と付き合い始めたことによって、二人の関係はおかしくなってくる。ギャングスターの嫉妬の対象はフレディなのだろうか?それともカレンに対してなのだろうか?いずれにしろ、その嫉妬は彼の中に黒い野心と狂気を生み出し、トラブルによって敵対していたギャング組織によるフレディ暗殺計画を知ったギャングスターはそれを揉み消してしまい、ボスを陥れて自らがナンバーワンになろうとする・・・・・

手下がボスを裏切ってトップの座を手に入れるという下克上なストーリーは、ある意味で類型的なものだが、やはりこの映画は何よりもアイデンティティについて語っているように思われる。部下に裏切られて、30年もの間刑務所に入れられていても自分を見失わなかった男と、ボスから引き継いだ組織をさらに何倍も大きくして、富も権力も有り余るほど手にしながら、欲望と狂気のうちに自分を見失ってしまった男。若きギャングスターをポール・ベタニー、55歳になったギャングスターをマルコム・マクダウェルが演じているのに対し、フレディは一貫してデヴィッド・シューリスが演じ続けているのもその辺りを表現したかったからではないだろうか。
30年経って出所したフレディにギャングスターは再会し、すべてに決着をつけようとする。物語はクライマックスを迎え、それに伴って映画的緊張もピークに達する。果たして勝者はどちらであったのか?大量の札が空中に舞う夜景をバックに流れる、ディヴァイン・コメディこと、ニール・ハノンが歌うスタンダード・ナンバー“The Good Life”が切なく響き渡る。

「アシッド・ハウス」に続く、ポール・マクギガン監督の第二作。一連の動作の時間軸を微妙に入れ替えた編集方法や追跡シーンでの分割画面の活用、加害者ではなく被害者の視点から撮った暴力シーンなど、随所に監督のスタイリッシュな手腕が光る。「アシッド・ハウス」に関して言えば、アーヴィン・ウェルシュの原作をなぞっただけというより、なぞり切れてもいないという印象だっただけに、この作品で飛躍的な進歩を見せたと言っても過言ではないと思う。

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「不眠症:インソムニア[オリジナル版]」 (1997年ノルウェー作品)
監督:エーリク・ショルビャルグ
出演:ステラン・スカルスガルド、スヴァーレ・アンケル・オースダール、ビョルン・フローベリ、ギスケン・アルマンド ほか


クリストファー・ノーランによってリメイクされた作品のオリジナル版。ノーラン版「インソムニア」が凡庸な出来だったので、あまり期待もせずに、WOWOWで放映されたから観たという程度だったのだが、さすがにオリジナルだけあって、こちらの方がずっと素晴らしいものになっており、オリジナルとリメイクの相違点を確認していく楽しみも含めて、ノーラン版を観た人でも一見の価値はあるかと思う。

髪の毛が洗われ、爪も切り揃えられた少女の全裸死体が発見された事件の真相の解明と、同僚を誤って撃ち殺してしまった刑事とそれを見ていた犯人との攻防、という基本ラインは、オリジナルでもリメイクでも変わらないが、ノーラン版ではロス警察の内務調査が進行中で、嫌疑がかけられている刑事とその同僚との間に意見の対立があったという設定によって、相棒を撃ったのは誤射だったのか?それとも故意だったのか?というもうひとつのサスペンスが付け加えられている。また、オリジナルとは異なるエンディングも、おそらくはそこから、自らが犯した行為の贖罪として導き出されてきたものだろう。しかし、それらの変更によって、ノーラン版の主人公像はひどく道徳的なものになってしまったような気がする。オリジナル版の主人公エングストロムは、自らの過ちを隠すためであれば、ウソの真犯人さえでっちあげようとするが、いくつかの偶然が重なって、事件は無事に解決し、且つ自身も何の罪に問われることもないままに終わる。ひたすら自己保身に走って、そのままドラマを駆け抜けていってしまう姿には、後味は良くないかもしれないが、切れ味の鈍いアル・パチーノに較べると、アンチ・ヒーローに徹した潔さが感じられる。僕らは何も映画にモラルを求めているわけではないのだから。プロフェッショナルな完成度という点では、物量にものをいわせたノーラン版に一歩劣るかもしれないが、予算的な関係もあったのだろう、どことなく漂うB級感覚はむしろ映画の題材とよくマッチしており、余計な動機付けなどは省略して、映画全体の流れを重視した、スピード感(オリジナル版のほうが、上映時間が20分ほど短い)のある演出も好ましい。これを観ると、アル・パチーノやロビン・ウィリアムスがいかにオーバーアクトなのかということも分かる。しかしながら、ノーラン版に存在意義がなかったとは思わない。もしノーラン版「インソムニア」が公開されていなかったのなら、この優れたノルウェー映画に巡りあうことも決してなかっただろうから。

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「パンチドランク・ラブ」 (2002年アメリカ作品)
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:アダム・サンドラー、エミリー・ワトソン、フィリップ・シーモア・ホフマン、ルイス・ガスマン ほか


「パンチドランク・ラブ」の上映時間は95分。ごく普通のサイズに思えるが、監督がポール・トーマス・アンダーソンということであれば、話は別になってくる。アンダーソンの前々作「ブギー・ナイツ」は155分、さらに前作「マグノリア」は187分の大作であり、一部では、アンダーソンは物語をコンパクトに纏めることができずに、長い映画しか撮れないのではないかと囁かれていたりもしたし、本人も「マグノリア」後のインタビュー(CUT2000年3月号)で、自分に欠けているものは?との問いに、「短い映画」と答えていたほどなのだから。果たして、「パンチドランク・ラブ」はたしかにコンパクトな作品に仕上がってはいるが、傑作「マグノリア」で錯綜していたエピソード群の中からひとつ取り出してみました、というようなものではなく、この才能ある監督の新たな境地を示す意欲的な作品になっていると思う。

少し情緒不安定なところのある、うだつのあがらない独身男バリー(アダム・サンドラー)が、リナ(エミリー・ワトソン)という女性に出会い、一目惚れをして、一生に一度しかないような強烈な恋の経験をする・・・という大筋に、バリーの7人(!)の姉たちや、バリーがテレフォン・セックスを利用したことによって巻き込まれるトラブルのエピソードなどが絡んでいくが、それらはあくまでドラマを進めていく上での適度な障害物程度の存在であり、バリーがそれらを乗り越えて(叩き潰して?)リナの元へと辿り着くまでが描かれていく。この辺りは、すべてのエピソードが均等に扱われていた「マグノリア」との大きな違いだろう。

しかし、この映画の目新しさはストーリーではなく、そのディテールにある。何というか・・・・・ヘンなのだ。

パンチドランク・ラブオープニングで、徹夜明けのバリーがコーヒーカップを持って、道路脇に出てくると、いきなり目の前で車が横転したかと思うと、後続の車から男が降りてきて、ハーモニウム(映画では何故かずっと「ピアノ」と言われ続ける)を置き去りにしていく。この場面、アダム・サンドラーをロングで捉えた静かなショットをいくつか積み重ねた後、カメラが切り替わってすぐに事故が起こるので、見た目には相当なインパクトがある。緩急の差を極端につけて、実際以上の映画的インパクトを出す手法は、この作品においてこの後も頻繁に用いられることになる。しかし何より奇妙なのは、この印象的なシークエンスが物語のどこにも繋がっていかない点だ。自動車事故はこの後一切触れられることはないし、ハーモニウムに関しては、バリーが自分のオフィスに持ち帰ったために、何度も画面に現れることになるが、何らかのメタファーになっているのかといえばそうでもなく、ただそこにあるもの(しかもかなりの不自然さをもって)としか描写されていない。あげくの果てには、バリーがリナの愛を取り戻そうとするクライマックスの場面で、バリーはハーモニウムを担いでリナの元へと走るのだが、バリーは演奏するどころか、それを(リナには見えない)ドアの脇へと置いてしまうのだ!

他にも、さっきまで普通に会話していたかと思うと、突然ガラスを割ったり、トイレを破壊したり、号泣したりするバリーの行動、効果音としか思えないようなリズムが延々続いたかと思うと、突如甘い旋律が大音量で流れてきたりする音楽、劇中の合間に突然挿入されるコラージュのような奇妙な映像、バリーがリナに電話をかけて繋がった途端、公衆電話がライトアップされる、という粋なのかベタなのかよく分からない演出・・・・・といった具合に、本筋とは関係のない部分での自己主張が激しく、それがこの作品を少々突拍子のないものにしてしまっている。この映像と音楽のリズム感覚に抵抗を覚える人もいるに違いないが、逆に言えば、ハマってしまうと、他には得難い貴重な映像体験をすることが出来ると言えるのかもしれない。そもそも、「一目惚れ」という行為自体、突拍子のないものなのだし。

ちなみに、公式サイト(http://pdl.eigafan.com/)によると、『ヘルシー・チョイス社のプリンを合計12,000個以上購入し、125万マイルを貯めた“プリン男”は実在する』とのこと。

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「シティ・オブ・ゴッド」 (2002年ブラジル作品)
監督:フェルナンド・メイレレス
出演:アレクサンドル・ロドリゲス、レアンドロ・フィルミノ・ダ・オラ、セウ・ジョルジ、マテウス・ナッチェルガリ ほか


非常に話題になっていた作品ではあるが、欧米以外の地域の特殊性みたいなものを高く評価しがちな映画ファンの心理が働いているのではないか、という偏見から何となく観るのを先延ばしにしていたのだが、ミニシアターでのロードショー後に、近くのシネコンで上映されることになったので、遅ればせながら鑑賞し、先のように考えた自分が恥ずかしくなると同時に、映画を観ていて久しく味わったことがない圧倒されるような興奮を感じた。おそらくこの作品を超える映画は、今年はもう出てこないのではないかと思う。

ナイフを石で研ぐ断片的な映像から始まり、捌かれていくニワトリが次々に映し出されたかと思うと、そのうちの一羽が逃げ出し、それをギャングでもある若者たちが追いかけて、狭い路地から路地へと横切っていく。短いカット割で畳み掛けてくる映像、手持ちカメラの臨場感、加速するサンバのリズム。緊張がピークに達しようとするその時、ニワトリは大通りに出て、この作品の語り手でもあるブスカペの前で立ち止まる。彼に捕まえるように言うギャングのボス、リトル・ゼ(=リトル・ダイス)。すると、通りの反対側の車から警官たちが降りてきて銃を構える。数では勝るギャングたちも対抗して銃を取り出す。ブスカペを挟んで睨み合う警官とギャングたち。音楽は止み、カメラは固定され、画面には緊迫感が漲る・・・・・この冒頭シーンだけですっかり映画の世界にのめり込んでしまって、そのまま最後まで画面に釘付けにされてしまった。

ブラジルはリオデジャネイロ郊外にある、“シティ・オブ・ゴッド”と呼ばれる貧民窟で強奪を繰り返す「優しき3人組」と呼ばれる若者たち。ある日、彼らの一人カベレイラの弟、リトル・ダイスの発案でモーテル襲撃を計画するが、実行する際に見張り役を押し付けられ、欲求不満を募らせたリトル・ダイスの暴走によって、思わぬ惨事を巻き起こすことになる。事件の後、リトル・ダイスは親友であるベネとともに、「優しき3人組」に取って代わって、街の顔役的存在になるが、より多くの利権を求めて、ドラッグに目をつけた彼らは、街の代表的ドラッグ・ディーラーを次々と殺害していき、巨額の富を思いのままにする。導師のお告げによってリトル・ゼと改名したリトル・ダイスは、それだけでは飽き足らずに、街を牛耳るもうひとつの組織のボス、セヌーラを殺害して、街を自分だけのものにすることに固執するが、セヌーラの知人でもあったベネの存在がそれにストップをかけていた。しかし、ギャングから足を洗うことを決心したベネの送別会で悲劇が起こる。ベネを失った今、リトル・ゼを止めるものは何もなかった。親類でさえ行き来が困難な状態となるような、街を二分したふたつの組織の熾烈な抗争が始まる・・・・・

以上のようなストーリーが、「優しき3人組」の内のもう一人、マヘクの弟であるブスカペの視点から語られていくが、リトル・ゼらと近い位置関係にいながら、カメラマンになることを夢見て、彼らとは違う生き方を選んだ彼の視点には、当時者の近くにいたがゆえの生々しさと、当事者そのものではない客観的でクールな視線の両方が感じられるところが面白い(いかにもカメラマン的?)。

年端もいかない子供たちが銃を手にして、何のためらいもなく人を撃ち殺す。その姿は衝撃的でさえあるのだが、映画はそこで止まることなく、普通の作品であればそれだけで一本撮れるようなエピソードが次々と繰り出されてくるので、ジョン・ウーや三池祟史の作品を観るときのような、ある種の感覚の麻痺状態に陥ってしまう。この辺りは、シリアスな社会派ドラマにしようと思えば出来たわけで、あくまでもエンタテイメントとしての映画の枠内で表現しようとする監督の意図が感じられる。それでいて、憎しみがまた新たな憎しみを生む悪循環、子供でも簡単に銃が手に入ってしまうような社会状況、貧民層をシティ・オブ・ゴッドと呼ばれるスラム街に押し込めてしまう政策、富裕層にまで被害が及ばなければ何もしようとしない警察などなど、現代のブラジル社会が抱える様々な病巣を、決して説教臭くなることなく、浮き彫りにしていく手腕は見事だと思う。

手持ちカメラを多用し、分割画面やコマ送りなど技巧を凝らしたスピーディかつパワフルな映像には、うっかりすると置いてきぼりにされてしまいそうなほど、多くの情報量が詰め込まれており、上映時間(130分)以上に濃密なそれは、知覚のすべてに訴えかけてくる、なんて言葉では甘すぎる、観る者の前頭葉を吹き飛ばして、本能の一番深いところに揺さぶりをかけてくるような強烈な体験となり得るポテンシャルを秘めている。

映画には必ず終わりの瞬間がやってきて、そこから解放されることになるが、ここに描かれている現実には終わりがないのだと思うと何ともやりきれない気分になってくる。エンディングの「この映画は事実に基づいている」というクレジットが、他のどんな作品よりも重くのしかかってくるような気がした。

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「Dolls」 (2002年日本作品)
監督:北野武
出演:菅野美穂、西島秀俊、三橋達也、松原智恵子、深田恭子、武重 勉 ほか


北野武の新作「座頭市」が今年度のベネチア映画祭において、監督賞を始めとして、4つの部門で受賞するという快挙を成し遂げた。大変に喜ばしいことだと思うが、個人的には、北野武のピークは「ソナチネ」であり、それ以降は緩やかな下降線を辿り、「BROTHER」はその最底辺を示す、徒に暴力的なだけの凡作としか思えなかった。そして、それまではすべての作品を観ていたにも関わらず、「Dolls」は劇場に足を運ぶこともなかった。しかし、「座頭市」のニュースの影響もあって、また、最近WOWOWで放映されたおかげもあって、ようやく「Dolls」を観ることができた。

上記のような理由で、決して能動的にこの作品に接したわけではなく、あまり期待もしていなかったのだが、非常に感銘を受けた。もともと出来不出来の差が激しいとはいえ、「BROTHER」の次にこのような作品を出してくるのだから、やはり北野武という監督からは目が離せないと改めて感じている。「座頭市」も是非観てみようと思う。

北野武の映画を観ていつも感心させられるのは、言葉ではなく、映像に語らせるということに非常に意識的な点で、彼の映画にいつも台詞が少ないのはそのせいもあるのだろう。また作品がグローバルな評価を得ているのも、実はこの点に負うところが大きいのではないかと個人的には考えたりもする。他にも、極端に省略するかと思えば、必要以上に長廻しを続けたりして、独特の間を作り出している編集方法や、小物(この作品の場合、天使の置物、アヒルのオモチャ、ペンダントなど)の活用などにこの監督の美質を見出すことができる。

その一方、非常に詩的な場面のあとに、陳腐としか思えないようなエピソード(例えば、「菊次郎の夏」における、井手らっきょやグレート義太夫が出てくる場面や、「Dolls」における、三橋達也演じるヤクザの親分のかつての弟分の息子とその友人のやりとりなど)が出てきたり、テレビタレントとしてのビートたけしに顕著な、「照れ」のような部分が作品を通しても伝わってくるような気がして、水を差されるというか、完全には映画の世界にのめり込めないもどかしさを感じたりもする。

しかしながら、この「Dolls」に関して言えば、確かにいくつかの欠点はあるにしても、全体としては、美点がそれをはるかに上回った満足のいく作品になっていたと思う。それぞれ微妙にリンクさせた、3つのエピソードから構成されたこの作品は、北野武が初めて本格的なラブ・ストーリーに挑んだものとして紹介されることが多く、僕としてもそれに異論はないが、失われて初めて気付く愛の大きさと、失った愛に対する贖罪としての死がテーマであり、その死はトリスタンとイゾルデのような甘美なものではなく、予期せぬ突然のものとして、登場人物に降りかかってくるあたりは、やはり北野武のこれまでの作品と地続きのものとして捉えることができるだろう。「日本の四季を撮りたい」と語っていた監督の意図が反映された映像は、これまでの北野作品のなかでも最も美しい表現を見せており、赤い綱で互いに結ばれて、あてどもなく彷徨する松本(西島秀俊)と佐和子(菅野美穂)の哀しみをより際立たせる。

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「24アワー・パーティ・ピープル」 (2002年イギリス作品)
監督:マイケル・ウィンターボトム
出演:スティーヴ・クーガン、シャーリー・ヘンダーソン、アンディ・サーキス、ショーン・ハリス、パディ・コンシダイン ほか


イギリスのローカル放送局グラナダTVで、司会やレポーターの仕事をしているトニー・ウィルソンは、1976年マンチェスターにやってきたセックス・ピストルズのライブを妻や友人とともに目撃する。観客はたった42人。しかしその中には、バスコックスのピート・シェリーとハワード・ディボート、ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスとバーナード・サムナー、後にシンプリー・レッドのヴォーカリストとなるミック・ハックネルなどがいた。彼らと同じように、ピストルズに触発されたウィルソンは、場末のバーを間借りして、「ファクトリー・ナイト」と呼ばれるライブ・イベントを始めるようになる。そこからさらに、イベントに出演するバンドのレコードを出すために「ファクトリー・レーベル」を立ち上げることを決意。正式な契約は交わさず、辞めたいときはいつでも辞めることができて、会社がアーティストのレコード製作に口を出すことは一切無い、という理想が掲げられたファクトリーには、ジョイ・ディヴィジョン、ア・サーテン・レイシオ、ヴィニ・ライリーなどのアーティストが所属し、なかでもジョイ・ディヴィジョンはその独自の音楽性と、ヴォーカリストであるイアン・カーティスのカリスマによって、大きな評価と人気を集め、アメリカン・ツアーも決定し、順風満帆にみえたのだが・・・・・

「この映画の主人公は僕ではなく、音楽とその音楽を作った人たちだ」という台詞とは裏腹に、ファクトリー・レコードの興亡をめぐるこの物語の中心はあくまでもトニー・ウィルソンであり、本当か嘘なのかよく分からない知識(ちなみに、「007」シリーズのプロデューサーがブロッコリーを発明した人の子孫、という話は本当)をひけらかしつつ、次々と起こる難題や苦境を前にしても、ユーモアと機知を持って対処する(あるいは、ごまかしていく)飄々とした彼のキャラクターはこの映画の大きな魅力となっている。また、見るからに胡散臭い業界人でもあるウィルソンに対して、しかしあまり嫌味な印象を持つことがないのは、彼の行動原理が、ビジネスライクな損得勘定ではなく、あくまでも、ひとりの音楽ファンとしての心理に基づくものであるからで、テレビの仕事を持っていながら、一方で音楽に深く関わっていくその姿には、僕らのような一般の音楽ファンと変わらない、同じ目線の高さが感じられるように思う。

この手の作品に関して言えば、そこに登場するアーティストや音楽に対する思い入れや知識があればある程、ディテールがより楽しめるのは間違いのないところではあるけれど、ハンググライダーの体験レポートや19世紀から運河の仕事に携わる老人へのインタビューなど、物語の合間に挿入されるウィルソンのテレビ局における珍妙な仕事の数々を始め、レコーディング中にベロンベロンに酔っ払ってはバンドのメンバーに怒鳴り散らすプロデューサーのマーティン・ハネットや、締め切りを守らずに、イベント当日になってチケットやポスターを持ってくるデザイナーのピーター・サヴィル、3000羽のハトにネコイラズを与えるハッピー・マンデイズのショーン&ポール・ライダー、そして、そのハッピー・マンデイズの、膨大な制作費をかけながらも、そのほとんどをドラッグの購入につぎ込んでしまい、挙句の果てに、そのレコードを完成させることも出来ないまま、結果的にファクトリーをロンドン・レコーズに身売りせざるをえない状態にまで追い込んでしまった放蕩三昧の日々など、全くその音楽を知らなくても楽しめてしまうような、個性的なキャラクターや面白いエピソードが満載であり、単なる音楽ドキュメンタリーを超えた、映画としての普遍性も兼ね備えているところが、この作品の最も優れた部分であるように思われる。

そして僕はといえば、既知の、或いは、この作品で初めて知ったエピソードを眺めながら、ニュー・オーダーやハッピー・マンデイズなど、ここに登場するアーティストたちとリアル・タイムで接することができた幸運を噛みしめていた。勿論それは単なる時代の偶然に過ぎないのだが、それはまた、幸福な偶然であったということが、この映画を観て再確認できたことが何よりも嬉しかった。

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「イギリスから来た男」 (1999年アメリカ作品)
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:テレンス・スタンプ、ピーター・フォンダ、レスリー・アン・ウォーレン ほか


強盗の常習犯であったウィルソン(テレンス・スタンプ)は9年の刑期を終えて出所するが、その間にアメリカへ移住した娘が事故死したという知らせを受け取る。その事件を不審に思った彼は単身ロスへと渡り、真相を探るとともに、娘の復讐を果たそうとする・・・・・

テレンス・スタンプとピーター・フォンダという60年代の英米を代表する俳優を起用するだけでなく、例えば、音楽プロデューサーであるテリー(ピータ−・フォンダ)が愛人に60年代の思い出を語って聞かせる場面で、オートバイによる転倒事故に言及するとき、おそらく観る人の多くは『イージー・ライダー』を想起するであろうし、ウィルソンの過去の回想シーンには、スタンプが68年に主演した、ケン・ローチの『夜空に星のあるように』が引用される、といった具合に、彼らのキャリアをそのままこの作品のキャラクターに反映させている点が面白い。さらに、二人の登場場面で使われる音楽は60年代ロックで、ウィルソンにはイギリスの、テリーにはアメリカのバンドという風に振り分けられており、テリーにはステッペンウルフやバーズの楽曲が使われるのだから、やはり、どうしたって『イージー・ライダー』を連想せざるを得なくなってくるのだが、『ワイルドで行こう』や『イージー・ライダーのバラード』ではなく、バーズにいたっては、It happens each dayという60年代当時は未発表だった渋い作品を選曲しているが為に、露骨に分かるような作りになってはいないのは、作り手の慎ましい趣味の良さを感じさせる。

この作品のもうひとつの特徴として、時制をバラバラにした、凝った編集方法も挙げられるが、それらはフラッシュバック、あるいはフラッシュフォワードの手法で断片的に挿入されているだけなので、ある種の実験映画のように、ストーリー自体が解体されている訳ではなく、むしろ物語の随所にヒントを散りばめたような効果を生んでいるように思う。ただ正直に言えば、映画を観始めた当初は、これらの手法に関して、テクニックのひけらかしという側面も否定できないのではないか、と感じていたのだが、映画冒頭にラスト・シーンの映像がチラっと挿入されるのを観て、より正確に言えば、ラストになって、それと同じ場面が冒頭にも使われていたことに気付かされて、この映画で現在進行形なのはラストのみであって、映画全体はフラッシュバックによって構成されており、また、人間の記憶と回想が必ずしも時系列ではないことから、この映画の時制の混乱は、決してスタイルのためのスタイルなのではなく、理屈に合ったものとして、当初の認識を改めることになったという次第。

この作品はDVDで鑑賞したのだが、ひとつ気になったのは、ソダーバーグ作品に顕著な、独特の風合を持たせた画面の色使いがまるで感じられなかったことで、これはもしかしたら、テレビ用にフィルムとは別の色調整をしたのかもしれないのだが、画面はクリアであっても、ハードボイルド的感興は少しばかり削がれているような気もした。いずれにしろ、ストーリー以外の部分で、色々と考えさせられるところの多い作品であり、裏を返せば、ストーリーそのものには、いまひとつ魅力に欠ける、というのは事実でもあるのだが、それに関して誰よりも自覚的なのはソダーバーグ自身であり、さらにその逆手を取ることによって、脚本をストレートに映像に置き換えるのではなく、実験的な試みを用いながら、様々な意匠を凝らしてみせたソダーバーグの演出術に、ここは素直に酔うほうがいいと思う。

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「ストーリーテリング」 (2001年アメリカ作品)
監督:トッド・ソロンズ
出演:ジョン・グッドマン、セルマ・ブレア、マーク・ウェバー、ポール・ジアマッティ、レオ・フィッツパトリック ほか


ストーリーテリングUSA・フォー・アフリカやスティーブ・ビコのTシャツを着て、「学部にいる他のガキとは違っているから」と言って、脳性小児麻痺のマーカスと付き合っている女子大生のヴァイ。ある日、受講している大学の創作クラスで、スコット教授にマーカスの作品が酷評されたことをきっかけに、ふたりは大喧嘩してしまう。その夜、鬱憤晴らしにバーへと向かったヴァイはスティーブ教授と出会い、そのまま一夜を過ごすことに。そこで教授がヴァイに強要したこととは・・・・・「ハピネス」に続く、トッド・ソロンズ監督の第4作。最近はモラルとタブーの境界線上でおどけて踊ってみせるような表現者が数多く見受けられるが、トッド・ソロンズもそのタイプの監督であるようだ。作品を重ねるごとに、そのブラックなユーモア感覚は研ぎ澄まされてゆき、今作においては、もはや笑えない地点にまで達してしまっている。いじめられっ子の失恋物語を描いた「ウェルカム・ドールハウス」の頃には、いや、あの全然ハッピーじゃない「ハピネス」においてさえ感じることのできた、登場人物に対する共感・共鳴のようなものは今作においては幾分希薄になっている。ただ、その突き放した作風こそが、この作品を既存の映画とは一味違ったものとして際立たせているのもまた事実。「フィクション」と「ノンフィクション」と銘打たれた2部構成となっており、それらは直接的な関連性はないものの、タイトルにあるように「物語ること」がテーマとなってはいるようだ。そこから透けて見えてくるのは、やはり、「物語ること」の困難さではあるのだが、真に新しい物語を模索する在り方として、ソロンズの方法論を評価することはできると思う。

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「ラブ・アクチュアリー」 (2003年イギリス作品)
監督:リチャード・カーティス
出演:ヒュー・グラント、リーアム・ニーソン、エマ・トンプソン、アラン・リックマン、コリン・ファース、ローワン・アトキンソン、キーラ・ナイトレイ ほか


「人は言う、“現代は憎しみと欲だけ”と。果たしてそうだろうか?父と子、母と子、夫婦、恋人同士、懐かしい友人・・・9・11の犠牲者がかけた電話も憎しみや復讐ではなく、愛のメッセージだった。見回すと、実際のところ、この世には愛が満ち溢れている。」

こんなナレーションとともに、『ラブ・アクチュアリー』は始まる。そして、その後2時間15分に渡って、そのメッセージを証明するかのように、9つの愛の物語が並行して描かれていく。その内訳は、秘書(ちょっと太目)に恋してしまう英国首相、言葉の通じないポルトガル人に恋してしまう作家(作家なのに言葉が使えない!)、一番の親友の結婚式に複雑な思いで臨む新進アーティスト(彼には秘密があった!)・・・・・などなど、ヴァラエティに富んだものになっているが、それぞれのエピソードに登場するキャラクター間に何らかの関連性を持たすことによって、映画全体の統一感を確保すると同時に、ひとつひとつのストーリーに関するポイントの的確な提示と、人物の魅力的なキャラ立ちによって、観る者が混乱することのないよう、実に手際良く捌かれていく。

脚本・監督のリチャード・カーティスの手腕はこれが初監督作とは思えないほどであり、エグゼクティヴ・プロデューサーも務めた『ビーン』や『ノッティング・ヒルの恋人』といった、自身の脚本作品の現場で、彼がただ単にヒマ潰しをしていた訳ではなかったことが分かる。実際、この映画はカーティスの集大成的作品と言ってもいいくらいだ。ヒュー・グラント、コリン・ファース、エマ・トンプソン、そしてローワン・アトキンソンなど、彼のこれまでの脚本作品の主演俳優たちが軒並み出演しているし、冠婚葬祭場面をストーリーの中に巧みに取り入れていく手法はこの作品でも大いに活用されている。また、落ちぶれたロック・スター、ビリーが再起を賭けてレコーディングするLove Is All Around(の歌詞を変えたクリスマス・ヴァージョン、ロバート・パーマーのAddicted To LoveのPVパロディは最高!)が、『フォー・ウェディング』のエンディングで使われていたのと同じ曲だと思い出す人もいるかもしれない。

いずれにしろ、好き嫌いといった個人の嗜好を除けば、この作品に欠点を見つけ出すのは難しい。9つのストーリーが、次々とクライマックスを迎えていく怒涛のエンディングはまさに圧巻だと言える。おそらく反対派は、カーティスのメッセージが楽観的に過ぎる、と言うのだろうが、それに対しては、楽観主義のどこが悪い?の一言で済む。シニカルな現実に浸りたいなら映画館に来る必要はない。僕は『ラブ・アクチュアリー』を選ぶ。これは、カーティスのハートから生まれた物語であり、映画館の暗闇の中でそれは現実、しかも、とびっきりの素敵な愛の物語だから。

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「8 Mile」 (2002年アメリカ作品)
監督:カーティス・ハンソン
出演:エミネム、キム・ベイシンガー、ブリタニー・マーフィ、メキー・ファイファー ほか


デトロイトの貧民層が暮らす界隈で、トレーラー暮らしを余儀なくされている若者が、幾多の困難を乗り越えて、地元のクラブで開催されている素人ラップ・バトル大会で優勝する・・・・・我ながら驚いてしまうのだが、この映画を要約すると、こんな感じになってしまう。迷っている人がこれを読むと観るのを辞めてしまいそうだ。もちろんこの他にも、主人公の家族や恋人を始めとする周囲との関係性や、プレス工場で働きながらも、自らの才能を信じて、ラップで成功したいという野心などを通して、映画はひとりの若者の姿を掘り下げていくのだが、こうして書けば書くほど、作品を類型的なものへと貶めていくような気がしてしまう。

『L.A.コンフィデンシャル』などで知られる、監督カーティス・ハンソンが奇を衒わずに、ごくオーソドックスで堅実な演出に終始したのが功を奏した、という言い方もできるだろう。しかしそれでは、観終わった後の僕の興奮を説明することはできない。もし、これを観たのが映画館であったならば、外に出てくる時は、きっとラッパーのスタイルを真似て・・・・・と、ここまで書いてきて分かった。ブルース・リー映画を特別にしているのが、ブルース・リー本人であるように、『8Mile』を特別なものにしているのは、エミネムその人なのだと。

この映画が優れているのは、エミネムを起用しながらも、スターとしてのエミネムではなく、エミネムがエミネムでさえなかった頃(映画ではジミーという役名になっている)を描きつつも、なお今現在のエミネムを観る者にしっかりと意識させる点にあると思う。エミネム本人が出ているのだから、当たり前ではあるのだが。

実は、これを観る前は、エミネムにはほとんど興味が無く、『ザ・エミネム・ショウ』も数曲を除けば、退屈で最後まで聴き通すことさえ出来なかったくらいなのだが、ここでの彼は非常に魅力的だ。僕が観た限りでは、この作品の中で、彼は一度も笑うことがない。映画における、俳優の表情というのは、コントロールされたものなのだから、これはおそらく、監督かエミネム自身によって、計算されたものなのだろう。実際、エミネムの、この真摯な眼差しによって、冒頭に書いたような、陳腐とさえ言われかねないような物語が救われたと言ってもいい。

エンディングでジミーは路地裏へとひとり消えていく。しかし、僕らはそれが栄光の道へと続いてゆくことを知っている。これがもし、エミネムが演じていなかったとしたらどうだろう?「エミネムの映画には興味がない。ただ役者として良い映画に出たいだけ」と語ったというエミネムの言葉とは裏腹に、やはりこれは、エミネムの資質なくしては成り立たなかった作品だと思う。

余談ですが、DVDには特典映像として、長期間の撮影でダレてきたエキストラの士気を高める目的で開催された、(本物の)ラップ・バトルの模様が収録されていて、最初は本番用に声を温存しようと、口パクで軽く流していたエミネムが、段々と素人に挑発されていって、遂には本気でラップし始めるところなど、まるで映画のようなドラマ性があって、これまた非常に面白いものがありました。

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「ドッグヴィル」 (2003年デンマーク作品)
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:ニコール・キッドマン、ポール・ベタニー、ローレン・バコール、ベン・ギャザラ、クロエ・セヴィニー ほか


「約束するよ。あの頭のおかしい監督の映画には二度と出演しない。名前は・・・変わった名前・・・そう、ラース・フォン・トリアーだ。」 (ベン・ギャザラの発言。公式HPより)

ギャングに追われて、ドッグヴィルと呼ばれる小さな村に迷い込んだグレースは、そこに匿ってもらう代わりに、その見返りとして、村人の雑用を手伝うこととなる。当初はうまくいくかに思えた、グレースと村人たちの関係だったが、ある日村を訪れた警官が、グレースの手配書を壁に貼っていったのを契機におかしくなりはじめる・・・・・

何故、舞台がアメリカなのか?何故、床に白線を引いただけのセットなのか?

ドッグヴィルおそらく映画を観た多くの人が抱くであろう上記の疑問点に関して、僕は事前にインプット済みだったにも関わらず、遂に最後までそれらに対する必然性のようなものを導き出すことは出来なかった。自身は飛行機恐怖症の為、アメリカに行ったことさえないのに、アメリカを舞台とした映画(『ダンサー・イン・ザ・ダーク』)を作ったことに対して、ジャーナリストに批判を受けたラース・フォン・トリアーが、意地になって、新しいアメリカ3部作を作ることを決意した、という話が雑誌に紹介されたりもしていたが、実際のところ、それだけの理由によるものなのかもしれない。セット撮影でアメリカを精密に再現しようとすればするほど、益々アメリカらしくないと批判されてしまうのは自明のことであり、作品のこれ以上ないシンプルで抽象的な劇空間も、そういった批判を回避するための巧妙な手段のひとつとして選択されたように思えてくるのだ。舞台作品との差別化を図り、映画的感興を醸し出す手法として、ライティングの工夫や俯瞰撮影の多用によって、映画が単調になることは避けられているが、そういったアイデアは、映画的ではないものを、映画的なものに近付ける苦肉の策のようでもあり、むしろ映画的でない空間を強調させてしまっているような皮肉な印象も受けた。とは言っても、そのセットを最初目にした時の違和感など、映画が進むにつれて、すぐに慣れてしまって(演劇のテレビ中継などでは見慣れた光景だ)、この映画の舞台設定など、たいして重要なことではないようにも、同時にまた感じるようになってきた。確かに作り物めいた印象は増してしまうが、誰もが知っているように、映画はすべて作り物なのである。

では何が重要なのか?『ドッグヴィル』を、『奇跡の海』や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』といった、ラースの過去の作品と並べてみると分かりやすい。それらはすべて、「抑圧と解放」という構造を持っている。そして、その中では、被抑圧者に対するプレッシャーが強ければ強いほど、最後に待ち受けている解放感も当然大きなものとなる。『奇跡の海』の主人公は、(倒錯的な形で)愛と神への信仰を貫くことによって、最後に奇跡を呼び起こす。息子を守るためにすべてを犠牲にして、極限状態にまで追い込まれた、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークにとっては、死こそが唯一の救いとなる(エンディング曲のタイトルは“New World”だ)。女性の受難物語ともいえる、これら一連の作品において、サディスティックともいえる仕打ちをキャラクターに強いてきたのは、エンディングに大きなカタルシスを用意する為の一点だけにあるようにさえ感じられる。もっとも、その過酷な要求はキャラクターのレベルに留まらず、ラースの過去の作品に出演した女優のひとりは、その後精神病院に入院してしまった、という逸話も残っているほどだが。

『ドッグヴィル』においても、「抑圧と解放」という基本構造は変わらない。上記の2作品と違った印象を与えるとすれば、エンディングのグレースの行動が復讐のように映り、それ故に、通常の映画的カタルシスを観客にもたらしてくれるからなのかもしれないが、夫や息子を守るという目的のために、自己犠牲の精神が実践されていた『奇跡の海』や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とは異なり、『ドッグヴィル』のグレースは、そもそも自分を守るために、あらゆる代償を払うのであり、ラストに至って、それまでの力関係が逆転したことによって、グレースにとって、もはや村人は必要でなくなったということなのだ。

自他ともに認めるサディストであるという、ラース・フォン・トリアーならば、映画を介して、自分と観客との関係をS&Mに見立ていたとしても驚くにはあたらない。言うまでもなく、主導権を握るのはラースであり、前売券を購入した僕などは、事前合意が成されているということだろうか。勿論、期待が裏切られることはない。

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「殺人の追憶」 (2003年韓国作品)
監督:ポン・ジュノ
出演:ソン・ガンホ、キム・サンギョン、パク・ヘイル、キム・レハ、パク・ノシク ほか


実際に起きた連続猟奇殺人事件、しかも今だ未解決のままの事案を映画化するとなると、現実との距離感を誤ってしまえば、とんでもなく悪趣味なものに陥ってしまう可能性もあるが、この「殺人の追憶」に関して言えば、実在の事件をベースにしながらも、虚実を巧みに織り交ぜて(例えば、犯人が犯行当日にラジオで同じ曲をリクエストするというのは創作部分)、実に優れた「映画」作品に仕立て上げている。題材が題材だけに、サイコスリラー的要素があるのはもちろん、捜査方法を巡って対立する刑事2人の確執のドラマがあり、手に汗握るサスペンスあり(犯人が夜道を歩く2人の女性のどちらをターゲットにするか、「品定め」する一連のシーンは実に恐ろしい)、コメディの要素あり(現場に体毛を残さない犯人は無毛症の男に違いないと銭湯で犯人探しする場面は爆笑!)、といった具合に、シリアスなテーマであるにも関わらず、それに臆することのない、伸び伸びとした、実に大胆な作りの映画となっていて、それでいてなおかつ、シリアスさが損なわれることは決して無く、最終的には、観る者の心にずっしりと重たいものを残さずにはいられない幕切れのエピソードの余韻も見事と言うしかない。

殺人の追憶冒頭の30分くらいは、いかにもアジア映画的な地域性を強調したような場面が続くが、ソウルから派遣されたソ刑事が登場する辺りから映画は俄然面白くなってくる。そして、個人的には一見退屈に思えた冒頭の描写は、世界のマーケットを対象にした際、よく「売り」に出される、アジア地域の特殊性ではなく、事件の起きた、華城(ファソン)という農村の、韓国における特殊性を描いたものなのだと段々と理解できるようになった。実際、この映画はさまざまな「ギャップ」についての映画だとも言える。ソウルとファソンのギャップ、そのファソンという、一面稲穂に覆われたのどかな農村と殺人事件の猟奇性とのギャップ、経験とカンを頼りに捜査するパク刑事と「書類はウソをつかない」と冷静な資料分析を基に捜査の方針を定めるソ刑事とのギャップ、当時はプロファイリングどころか、DNA鑑定さえもできなかった韓国の警察と現場に証拠を残さない犯人とのギャップ・・・・・これらのギャップがドラマに奥行きとダイナミズムをもたらし、犯人逮捕という通常のクライマックスとは別のところで(未解決事件なのだから、そもそも、そんな場面は有り得ない)、観る者に強い揺さぶりをかけることに成功している。

もし映画に何らかの社会的貢献をすることが可能であれば、それは事件を風化させないことなのかもしれない。拷問担当(?)だったチョ刑事は、焼き肉屋での喧嘩沙汰で負った破傷風が原因となって片足を切断しなければならない羽目になる。彼は自らの失われた片足を見るたびに事件のことを思い出さずにはいられないだろう。そして僕らもまた、今後この映画について考えるたびに、隣の国で起きた事件に思いを馳せることになるのだろう。「殺人の追憶」とは何とも言い得て妙なタイトルではないか。傑作である。

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「21グラム」 (2003年アメリカ作品)
監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
出演:ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロ、ナオミ・ワッツ、シャルロット・ゲーンズブール ほか


「アモーレス・ペロス」のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の新作ということで楽しみにしていた反面、アメリカ資本によるスポイルされた作品になるのではとの懸念もあったのだが、まったくの杞憂だったようで、前作のパワーはそのままに、更に複雑なテクスチュアを持った力作を届けてくれた。

この作品における大きな特徴といえば、時制をバラバラに解体したうえで再構成するという手法であり、これは前作「アモーレス・ペロス」でも試みられていたものではあるが、さらに複雑で、よりアットランダムなものとなっており、過去・現在・未来が何の説明もなく並列されるので、予備知識を持たずに、この作品を観た人であれば、最初はかなり戸惑ってしまうに違いない。しかし、それはまた、サスペンスの真意を確かめたいという心理的欲求を働かせ、映画への集中度を高める効果をもたらすことにもなる。水の無い寂れたプールや、夕日をバックに空を翔ける大量の鳥といった、さりげない、しかし印象的なイメージを挿入しながらも、映画後半にかけては、解体度は徐々に薄まっていき、前半に無秩序に配されたシーンの数々の意味合いが把握できるようになるにつれて、ドラマの密度も高まっていく展開には、映像の力というものを意識させられるとともに、映画でしか感じることのできないような類の興奮を味あわせてくれる。

ひとつの交通事故を巡って、それまでは無関係だった3人の男女がどう関わっていくことになるのか、またその事故によっていかに運命を狂わされ、そこからどうやって救済されるのか、というテーマに関していえば、前作「アモーレス・ペロス」と共通するものであり、「21グラム」はその英語ヴァージョンといった趣もある。監督のイニャリトゥは、以前はDJをしていたという経歴の持主だが、作品における、脚本(前作に引き続きギジェルモ・アリアガによる)や俳優たちの熱演といった、素材の良さを生かしながらも、それらを混ぜ合わせて、何か別のものに作り上げてしまう、リミックスにも似た手法には、なるほど、DJ的な感覚が伺える。ただし、そのめまぐるしい編集によって、前作との差別化を図ったとはいえ、それでも「21グラム」が「アモーレス・ペロス」と似通った作品であるということ、また、内容よりスタイルが優っている点も含め、評価は分かれるかもしれない。

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「テープ」 (2001年アメリカ作品)
監督:リチャード・リンクレイター
出演:イーサン・ホーク、ロバート・ショーン・レナード、ユマ・サーマン


映画祭への出品のために、故郷の町へと戻ってきた新進映画監督のジョンは、ハイスクールの同級生で、現在はドラッグのディーラーをしているヴィンセントと数年振りに再会する。そして、お互いの近況や昔話を語り合うが、やがてヴィンセントは10年前のある出来事を持ち出してジョンを問い詰めていく・・・・・

スティーブン・ベルバーの芝居の映画化を企画したイーサン・ホークが、『恋人までの距離<ディスタンス>』、『ウェイキング・ライフ』で一緒に仕事をしたリチャード・リンクレイターに監督を依頼し、『いまを生きる』で共演したロバート・ショーン・レナードと、当時は妻であったユマ・サーマンとともに出演した、プライヴェート色の濃いフィルムであり、また、登場人物は上記3人のみ、舞台はモーテルの1室に限定され、ほぼリアル・タイムで映画が進行するという、一種の実験映画でもある。同じようなスタイルの作品として、ジョエル・シューマカーの『フォーン・ブース』が想起されるが、エンドクレジット部分以外には音楽は使用せず、カメラも一歩も部屋から出ない分、よりストイックな印象を受ける。短いカット割と幾分せわしないカメラワークによって、地理的な移動がない作品に動きを与えようとする点に関しても、両作品に共通するところではあるが、『テープ』においては、さらにオリジナルの舞台作品との差異化という狙いもあったように思われる。また、同じく演劇を映画化したものとして、逆にカット割を極力減らした(というより、映画全体を1カットで撮ったように見せかけた)ヒッチコックの『ロープ』のような作品もあるが、演劇を映画に還元しようとする際に、多くの映画監督が極端なカット割の増減という方法論によって、映画的感興を醸し出そうとしている点は興味深い。

中盤辺りまではイーサン・ホークの独壇場と言えるような場面が続いていくが、短いカット割が多用されているにも関わらず、それこそ演劇を観ているような途切れることのない演技の連続性が感じられて、例えば、『フォーン・ブース』では、コリン・ファレルの演技を極力中断させず、緊張感を持続させるために、4台のカメラを同時に回したという話を聞いているが、この『テープ』に関して言えば、あの狭いモーテルの部屋で複数のカメラをセットすることは物理的に不可能であり、しかし、それでいてあのような演技が出来ているのは、まったく同じ演技を、カメラのポジションだけを変えて、何度もさせたうえで、それを編集段階で継ぎ接ぎしているのではないだろうか。これは全くもって僕の憶測であり、また余談でしかないのだが。

真意の掴みかねる、とりとめのない会話をヴィンセントとジョンが延々と続ける序盤部分はやや退屈に感じられるが、『テープ』という小道具が予想外の展開をもたらす中盤以降は、3人の力学的関係性のスリリングさも加わって、ドラマは俄然活気を帯びてくる。そして、このトライアングルにおいては、モーテルの部屋から完全に立ち去ることの出来た者が勝者となる。何故なら10年前の出来事に囚われた3人にとって、そこは「過去」という名の部屋なのだから。

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「ロスト・イン・トランスレーション」 (2003年アメリカ作品)
監督:ソフィア・コッポラ
出演:ビル・マーレイ、スカーレット・ヨハンソン、ジョバンニ・リビシ ほか


CM撮影の為に来日したアメリカ人俳優ボブは、連日続く不可解な仕事の数々と、言葉の通じない異国の土地に馴染めずに、不眠症に悩まされていた。そんなある夜バーで、同じホテルに滞在するシャーロットと知り合う。フォトグラファーである夫に同行していた彼女もまた、仕事ばかりの夫に構ってもらえないで、眠れぬ夜を過ごしていた。同じ境遇のふたりは何度か同じ時間を共有するうちに、いつしか惹かれ合うようになるのだが・・・・・

ロスト・イン・トランスレーションアカデミー賞のオリジナル脚本賞を始めとして、数々の映画賞を獲得し、前評判が高かった一方で、内容に関して、一部で「国辱モノ」だという批判が持ち上がったり、あるいは、ソフィア・コッポラがこの作品の公開後にスパイク・ジョーンズと離婚したかと思うと、現在はクエンティン・タランティーノ(そういえば、昨年『キル・ビル』のプロモーションで来日した際、タランティーノはずっと『ロスト〜』のTシャツを着ていましたね)と付き合っている、といったゴシップもあって、何かと話題の多い作品でしたが、そういった周囲の喧騒とは異なり、映画そのものは実に静謐な味わいを持った佳作であり、デビュー作『ヴァージン・スーサイズ』では、優れた原作の無難な映画化というレベルに留まっていたソフィア・コッポラにとっては、まさに飛躍となった作品と言って良いでしょう。問題(?)の日本の描写に関しては、この程度であれば十分容認できる範囲だというか、言葉の通じない異国におけるカルチャーギャップを表現する際に、ある程度強調して描くのはむしろ当然のことであって、上記のような感想は若干穿ち過ぎのように思えます。例えば、ナイト・クラビングのシークエンスでは、ヒロミックスや藤原ヒロシといった、<いかにも>といった人たちをカメオ出演させるという配慮もあったりして、その辺は、milk fedというブランドのデザイナーであり、フォトグラファーでもあるソフィア・コッポラの人脈なのかもしれませんが、全般的に見ても、これまでに日本を舞台にしてきた他の外国映画に較べると余程マシというか、たしかに余所者の視点には違いないのですが、大阪出身の僕が渋谷や新宿を見るのと同じような東京の風景が、違和感なく切り取られているように思います。

これがもし、『キル・ビル』であったとすれば、日本の描写が正確では無かったとしても、そこにばかり気を取られていると、作品そのものを楽しむ機会を逸してしまう恐れもありますが(僕がまさにそうでした)、連続的なストーリー性は排除され、エピソードが点描の如く配置されている『ロスト・イン・トランスレーション』においては、作品の舞台としての日本の、このような適切な描写があってこそ初めて、ボブやシャーロットが感じている違和感や疎外感といったものが、強い説得力を持ち、観る者が共感することも可能となるのです。さらには、歌舞伎町のネオンや渋谷の雑踏といった、一見アンバランスな東京の夜を背景にすることによって、この慎ましいラブ・ストーリーをより際立たせることにも成功したと言えるでしょう。

物語は比較的冷静なトーンで淡々と進行していきますが、抑えられた感情は画面から滲み出てくるようで、作品自体はとてもエモーショナルなものとなっています。また、ボブとシャーロットの関係があくまでもプラトニックなものに終始したことは、決して偶然のものではありえず、そこにはある種の意志が存在しているように思われます。ボブは別の夜には、シャーロットと同じように、バーで隣り合わせたクラブ・シンガー相手にはためらいもなく、一夜を共にするのですから。一夜限りの恋、朝になったらすっかり忘れ去ってしまう恋・・・・・シャーロットともそのチャンスが無かった訳ではないのに、しかし、彼はそうしなかった。一期一会でしかない出会いを、この先もずっと忘れ難いものにするには、この方法でしかないとでもいうように。

上映後、待合カウンターでコーヒーを飲みながら、ぼうっとシネ・リーブルの入っている梅田スカイビルの窓から外の景色など眺めていると、東京と大阪の違いはあるにしても、少し前までスクリーンで観ていたのと、さほど変わりない風景がそこにはあって、何となくまだ夢の中にいるような、いつもより少しだけ長い余韻を味わえたりもしました。

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「フル・フロンタル」 (2002年アメリカ作品)
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:ジュリア・ロバーツ、デヴィッド・ハイド・ピアース、キャサリン・キーナー、メアリー・マコーマック、ブレア・アンダーウッド ほか


俳優であれば、誰もがその手がけた作品に出演したいと願う、ハリウッドの大物プロデューサーであるガスの誕生パーティーに招かれた(あるいは招かれなかった)人々の一日。

キャサリンとニコラスは、ガスの最新作『ランデヴー』に出演中。その作品の脚本家であるカールは勤務している雑誌社の編集長から突然解雇を告げられる。カールの妻リーは、カールとの離婚を決意して置き手紙してから出社するが、リストラによる社員の首切りがメインになっている仕事にも不満を持っている。マッサージ師をしているリーの妹リンダは、リーを通じてパーティーに紹介されているが、あまり気乗りがしない。彼女は翌日に控えているネットで知り合った男性との出会いを楽しみにしているのだ。『ランデヴー』の共同脚本家であるアーサーは、同じくカールと共作した、ヒトラーを主人公にした舞台の初日を迎えようとしているが、チャットに夢中で、演出する間もパソコンを離さず、気もそぞろ。実はリーが会う男性とは彼なのだが、ふたりともそのことをまだ知らない・・・・・

例えば『シックス・センス』や『アザーズ』のように何の予備知識もないまま観た方が絶対に楽しめる作品もあれば(この2本を並べること自体、ネタばれになっているような気もしますが)、事前にある程度の情報を入れておいた方が良い作品というのもあって、この『フル・フロンタル』に関しては後者のケースであるように思います・・・・・と書いてしまうと、この作品が難解なものであるかのように受け取られてしまうかもしれませんが、決してそうではなく、ただ、この作品には劇中劇と(映画の中における)現実とが同時進行で描かれるということだけ頭に入れておかれたほうが良い、という程度のものです。そのことをはっきりと示すシーンも中盤辺りには出てくるのですが、そこに至るまでに、訳が分からずに退屈してしまう人もいるでしょう。実際、アメリカの評論家には酷評されたそうですし、日本においても、ネットを見る限り評価は散々であるのも、主にこの作品が持つ語り口の不親切さに起因するように思われます。

おそらく『トラフィック』の成功によって、スティーヴン・ソダーバーグは(『トラフィック』で試みられた)複数のストーリーが同時進行していくというスタイルを更に深く追求したいという気持ちがあったのではないでしょうか。ちょうど『アウト・オブ・サイト』のワン・シーンで用いられたインターカットの手法を、『イギリスから来た男』においては全編に用いたのと同じように。しかしながら、ジュリア・ロバーツやブラッド・ピットが出演したことによって、商業主義の面を被ることになったこの実験的な作品は、必要以上に多くの観客を呼んでしまうことになり、それが不幸な結果を招いたように思えます。ほとんど脚本を書かなくなった近年のソダーバーグはますますスタイル重視の作品を撮る傾向が強まってきていますが、『エリン・ブロコビッチ』や『オーシャンズ11』の観客のほとんどは、実のところ、そんな彼の映像スタイルに興味などなかったのです。しかし逆に言えば、『フル・フロンタル』は、ショウビズの内幕を描いていながらも、そんなしがらみとは関係のないところで、ソダーバーグの資質が全開した、(ジュリア・ロバーツでもブラピでもなく)ソダーバーグのファンにとっては、絶対に見逃せない作品であると言えるでしょう。

劇中劇のみフィルムで、それ以外、つまり映画のほとんどの部分はデジタルビデオで撮られており、粒子の粗さはあるものの、それもまた物語前半で提示されるショウビズ界で生きる者の孤独感を表現するのにむしろ適しているようであり、また、わざと画面全体をぼかして撮られたラブ・シーンの思いがけない美しさや、その他、画面の切り取り方から受ける印象は、この手のデジタルビデオを使った作品の批判としてよく使われる「素人臭」さとはまるで無縁であり、単なるストーリーの伝達に留まらない、ソダーバーグならではの魅力をこの作品からは十二分に感じ取ることができます。

意外にもハッピーエンディングが多い、これまでのソダーバーグ作品同様、この『フル・フロンタル』にも「映画みたいに素敵な」エンディングが用意されているのですが、『ラブ・アクチュアリー』も真っ青かと思ってしまうような愛の賛歌が奏でられるばかりでなく、ラスト・シーンにおいては、この作品が3重構造であったことが提示され、その幸福感を観る者に届けてくれるという仕掛けにもなっています。お見事!

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2004年ベスト5


1. オールド・ボーイ

韓流ブームのおかげで、これまで以上に多くの韓国映画が観られるようになったが、何よりもその質の高さに驚かされ続けた一年だった。中でも個人的にベストに推したいのはこの作品。これほど呵責無く描かれた復讐劇というのも珍しいが、ストーリーの面白さ・スリリングな展開・凝ったカメラワーク・結末の衝撃性といった、映画を優れたものにする要素がすべて備わったうえに、エンタテイメント性とアーティスティックな拘りとが絶妙のバランスで融合されていて、まったく文句の付けどころがない。日本がこの作品(原作は土屋ガロンの漫画)を映画化しなかったことに対する恨み節も聞こえてくるが、『JSA』に続いて、またしても傑作に仕立て上げてみせた、パク・チャヌク監督の手腕には脱帽するしかないだろう。

2. オアシス

ひとりの中年男の人生を、時間軸を遡る形で描いた、『メメント』に先駆けるリワインド・ムービーの傑作『ペパーミント・キャンディー』に続く、イ・チャンドン監督の新作『オアシス』は、前科3犯の男と重度脳性麻痺の女の恋愛という際どいテーマを、安易な情緒的解決に逃げることなく、前作とうってかわってのストレートな語り口によって、内容の衝撃性をより高めることに成功している。われわれはすべて不完全な存在であることを痛感させられる一方、未来に希望を託すエンディングを用意してくれたことが何よりもうれしい。

3. 殺人の追憶

4. 悪い男

韓国映画界の異端児、と言われる一方、世界的には最も高い評価を受けるギム・ギドク監督の2002年の作品。日本で観られる作品はまだ限られているが、『魚と寝る女』と、この『悪い男』を観ただけでも、その才能を感じ取るには充分だといえる。一歩間違えれば、ポルノになりかねないような題材を、極彩色の映像美とハードボイルドなタッチによって、キム・ギドクの世界としか形容できないような異空間へと観る者をいざなう。そこでは通常の倫理観は通用しないが、もっと根源的な部分から、観る者に揺さぶりをかけてくる。エンディングの観念性を克服できたとき、さらにこの監督は大きな存在となるのかもしれない。

5. ロスト・イン・トランスレーション

2004年において、韓国映画に匹敵するインパクトを与えてくれるものは何もなかったが、ソフィア・コッポラによる、この慎ましくもエモーショナルな一篇もやはり忘れ難い作品のひとつ。スカーレット・ヨハンソンのコケティッシュな魅力、東京の夜の美しさ、マイ・ブラディ・ヴァレンタインやジーザス&メリー・チェインの音楽などといったものは、あくまでも二次的なものに過ぎないが、そういったひとつひとつの要素が丁寧に積み重ねられることによって、コッポラ自身の体験をもとに描かれた、この一期一会のラブストーリーをすばらしく魅力的なものにしている。言語がすべて無意味な音と化してしまう異国の地にあって、唯一意味性を伴って響いたはずの、ボブがシャーロットに囁いた最後の言葉を、われわれは決して知ることができないという思わせぶり加減も、心地好い余韻を引きずらせてくれる巧みな幕切れ。

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「スイミング・プール」 (2002年フランス作品)
監督:フランソワ・オゾン
出演:シャーロット・ランプリング、リュディヴィーヌ・サニエ、チャールズ・ダンス ほか


スランプ状態にあるミステリー作家サラ・モートンは、編集者のジョン(彼らの間には作家と編集者という関係性以上のものがありそうだ)から、気分転換に彼がフランスに持つ別荘で過ごすよう薦められる。イギリスでは見ることのできない素晴らしい天候と静かな環境にサラの創作意欲は再び沸いてくる。しかしある夜、ジョンの娘ジュリーが予告もなく現れることによって、彼女の平穏は崩れ去ってしまう。めったに外出せず、食べるのも低カロリーのヨーグルトだけというストイック生活を送るサラに対して、若さにはちきれんばかりのジュリーは、フォアグラやアルコールを大量に持ち込んで、敷地内をほとんど裸同然の格好で歩き回り、夜毎に違う男を家に連れ込んでくる。そんなジュリーに嫌悪感を催すサラだが、同時にその余りに奔放なスタイルにいくらかの好奇心を感じずにはいられなかった。作家的インスピレーションを受けた彼女はジュリーを主人公にした作品を書くことを思いつき、それとともに彼女自身にも変化がみられるようになるのだが・・・・・

スイミング・プール映画の中盤辺りからは、観る者は明らかに違和感を憶えるようになるのだが、それが何なのかははっきりと分からないまま、エンディングで驚かされてしまうという、ぶっちゃけていえば、M・ナイト・シャマランの諸作品やアメナーバルの『アザーズ』のような構成を持つ映画なのだが、しかしそのエンディングは、瞬時にすべてを解き明かしてくれるという類ものではなく、そこで立ち止まって、しばし考えてみる時間が必要であり、その意味では不親切かもしれないが、その点こそがこの作品にミステリアスな奥行きを与えることになり、前述の作品たちとの差別化を図っているとも言えるだろう。実際のところ、虚構内虚構の線の引き目さえ誤らなければ、『スイミング・プール』はさほど複雑な作品というわけではない。フランスの場面におけるいくつかの矛盾点にしたところで、サラは作家であって、作家というものは作品を何度も推敲し、書き直すものだと言ってしまえば、事足りるのではないだろうか。映画の中にもうひとつの虚構を設定したことによって、監督のフランソワ・オゾン自身もより自由なイマジネーションを発揮できるわけだし、そもそもこの映画は、一冊の本が書き上げられるまで、についての物語なのだ。しかしこれ以上種明かししてしまっても、むしろ陳腐な物語に思われてくるだけかもしれない。この手の作品にはむしろ進んで騙されるほうが鑑賞態度としては好ましいことであるだろうし、映画を構成するパーツのひとつという枠組みを超えて、自身の存在感そのもので観客を魅了するリュディヴィーヌ・サニエとシャーロット・ランプリングというふたりの女優に見惚れているだけでもいいのだろう。

カフカの短編小説を、ジョン・ウォーターズが映画化したようなデビュー長編『ホームドラマ』に驚嘆して以来、フランソワ・オゾンの作品は欠かさず観ているが、僕個人としては、『ホームドラマ』とそれ以前のいくつかの中・短編(『海をみる』など)のインパクトに匹敵するものにはいまだに出会えていないというのが正直なところで、この『スイミング・プール』にしたところで、やはりインパクトという点では今ひとつだったのだが、この作品に限らず、『焼け石に水』、『まぼろし』といった近作を観るにつけて、オゾンは変わってしまったのだと認めざるをえない。かつての『ホームドラマ』にはあったような、毒気とポップさが同居したパワーは失せてしまったが、より洗練されて、抽象的で高度なテーマを扱うようになり、作家性の発露、映画作家としての成熟が感じられるようになってきた。たしかに成熟することがそのまま作品の魅力に繋がるかといえば、そうでもないのだが、オゾンの場合、作品そのものは決して悪くはないだけに余計に始末が悪い。そうすると僕の嗜好にこそ問題があるということだろうか。もしそうだとしても、他人の目を借りて映画を鑑賞するなんてことはできないし、その辺りで毎回判断に悩まされてしまうのだが、それだからこそなのか、新作が公開されれば、やはりまた観ずにはいられなくなるというのは、オゾンの術中にまんまと嵌まってしまっているのかもしれない。

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「エターナル・サンシャイン」 (2004年アメリカ作品)
監督:ミシェル・ゴンドリー
出演:ジム・キャリー、ケイト・ウィンスレット、キルスティン・ダンスト、イライジャ・ウッド ほか


ジョエルは、恋人のクレメンタインとささいなことから喧嘩別れしてしまう。後悔した彼はプレゼントを持って彼女の勤める書店に向かうが、彼女はジョエルを見ても、まるで見知らぬ他人のように扱うばかり。ショックを受けた彼は友人宅に向かうが、そこでクレメンタインが、記憶除去を専門とするラクーナ医院で、彼との記憶のみを消去する手術を受けたことを知る。さらなる痛みに耐えかねたジョエルは、クレメンタインと同じく、彼女との記憶を消し去るべく医院に依頼する。睡眠薬を飲んで、一晩寝入っている間に、クレメンタインのことはきれいさっぱりと忘れられるはずだった。しかし、彼の脳裏に彼女との様々な思い出が映し出され、それが次々と消去されていくのを見るにつけ、再び後悔するようになる。「止めてくれ!」。そして、眠っているジョエルの意識下で、記憶除去手術に対する抵抗が始まるのだが・・・・・

この映画に関するひとつの誤解は、時間軸がバラバラに解体されている、というものであると思われる。一見すると、その指摘は正しいように思えるのだが、映画を注意深く観ていくと(あるいは後で思い出していくと)、時間軸通りに並んでいないのは、浜辺でのジョエルとクレメンタインの出会いが描かれる映画の冒頭部分くらいなのである。それに続く、主要キャストやスタッフのクレジットが表示されていく、ジョエルが泣きながら車を運転する場面以降は、実はたった2日の出来事を、ほとんどすべて時間軸通りに描いているのだ。この作品が、観る者を混乱させるのは、ジョエルの記憶が消去されていく過程において、彼の脳内で展開されている心象風景の数々のせいにあるのは間違いないだろうが、これでさえ、律儀なことに順番通り、<遡って>描かれていることが、後になってみると分かる仕掛けになっているのである。しかし、ここでは時間軸通りに並んでいない冒頭場面についてもう少し言及してみたい。映画本編から特定のシーンを抜き出して、冒頭に持ってくるという編集方法は決して珍しいものではなく、そのシーンが再び繰り返されるまでの過程を強調したいときなどに広く用いられる手法のひとつであり、この作品でもやはりそうであるにも関わらず、むしろこれを観た多くの人が、(少なくとも途中までは)その冒頭シーンのみが時間軸通りに、つまり最初に置かれたシーンであり、それ以降のシーンがバラバラに解体されていると思ってしまうことこそに、この映画のトリックがある。また、突拍子もないテーマとスタイルを持っていると思わせておきながら、その実、その両方において、しごくまっとうな本質を見せることにおいて、逆に際立った個性を持つに至った作品だといえる。

ジョエルの脳内で、クレメンタインとの思い出が再現されるその傍から、それらが次々と消去されていく様が、映像として還元されるのを観るのは、シュールなまでの滑稽さを醸し出すと同時に、グラフィック的な面白さも感じさせてくれる。これら一連のシーンに、『エターナル・サンシャイン』における映像的な冒険が集約されていることは間違いなく、監督のミシェル・ゴンドリーにとって、その才気を発揮するのにやぶさかではなかっただろうが、我々はこれと似たような場面を以前にも観ていることに気付く。『マルコヴィッチの穴』である。そこで改めて、両作品の脚本家であるチャーリー・カウフマンの存在の大きさというものに思い当たらざるをえない。今年度のアカデミー賞で(この『エターナル・サンシャイン』によって)オリジナル脚本賞を獲得した、1958年ニューヨーク生まれのカウフマンは、続編とリメイクばかりが横行する現在のアメリカ映画界において、ユニークな持ち味と確かな筆力に支えられた唯一の脚本家であると言っていいかもしれない。上記の2作品共に、人の脳内を描いたシーンがあることは驚くにはあたらない。何故なら、そもそもこれらの作品はカウフマンの明晰な頭脳から発せられたものであり、『アダプテーション』を観れば分かるように、作品が生まれてくる過程というものにも人一倍興味を持っている人物であるのだから。しかしながら、主人公(と観客)を決して届くことのない片想いの中に永遠に閉じ込めてしまった『マルコヴィッチの穴』とは異なり、『エターナル・サンシャイン』には救済があり、記憶を消した程度(!)では失われない愛の軌跡を、恥ずかしげもなく感動的に描いてみせた。嬉しいことに、頭の中身を分析することのみによって語られたのではない、カウフマンの熱いハートの鼓動がそこからは聴こえてくるのだ。

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「CODE46」 (2003年イギリス作品)
監督:マイケル・ウィンターボトム
出演:サマンサ・モートン、ティム・ロビンス、オム・プリ、ジャンヌ・バリバール ほか


クローン人間が跋扈し、高度な管理体制が敷かれた近未来社会では、都市部とそれ以外の地域では明確に線引きがなされ、あらゆる都市に滞在するには、パペルと呼ばれる滞在許可書を持たねばならない。そのパペルを製造する工場で偽造事件が起きたために、調査員のウィリアムは上海に赴く。他者が自己を語り始めると、その人の考えていることが分かる「共鳴ウィルス」を用いて、彼はマリアが犯人であることをすぐに見破るが、マリアに対して言い様のない魅力を感じた彼は虚偽の報告をして彼女を助け、そのまま彼女と一夜を共にする・・・・・

ダーリン、教えてほしいんだ
俺はここに留まるべきか、それとも去るべきなのか
もし、私はあなたのもの、と言ってくれるのなら、俺はずっとここにいる
だから教えてくれないか
留まるべきか、去るべきか

もし去るのなら、トラブルになるだろう
そして、留まるのなら、さらに厄介なことになるだろう
さあ、教えてくれ


上に歌詞を掲載したクラッシュの「Should I Stay Or Should I Go」は、この映画の中の、カラオケバーにおけるワンシーンで、何と元クラッシュのミック・ジョーンズ本人が登場して歌われる。この映画に関する記述はいくらか目にしていたが、これについて指摘していたものは皆無だったのでビックリしてしまった。最近の若い人にとっては、ミック・ジョーンズといっても、リバティーンズやベイビーシャンブルズをプロデュースしている、頭の薄いヘンなオジサン(失礼)、というくらいの認識なのだろうか。まあ、それはともかく、この曲の歌詞はその後の主人公の運命を暗示しているかのようで、実にぴったりの選曲であったし、観終わった後にこうして歌詞を眺めてみると、映画の内容を追体験できるようで、さらに感慨深いものがあった。

監督はマイケル・ウィンターボトム。この人はとにかくハイ・ペースで映画を撮り続けている人で、ビデオ待ちしていると、その間に2本くらい新作が劇場公開しかねないくらいで、一部では「イギリスの三池崇史」と呼ばれている(?)。そのすべてを網羅しているわけではないが、『GO NOW』や『ウェルカム・トゥ・サラエボ』辺りでは器用貧乏にみえたそのスタイルが、作品を重ねていくにしたがって洗練されたものとなってきていて、『24アワー・パーティ・ピープル』と『イン・ディス・ワールド』の2作品において、遂にその真価が発揮されたような印象が個人的にはあった。その『イン・ディス・ワールド』に続く今作では、近未来SFモノという、またまた新しいジャンルに挑戦するとともに、そのほとんどをセットではなく、ロケーション撮影によって近い未来の世界を描かんとしている点はこの作品の質感を特徴づけるものであり、必然雰囲気重視の作りにはなってくるが、まさにその意味において成功しているものと思われる。上海がその舞台として選ばれたのは、現在急激に発展している都市でありながら、同時にまた、西洋人にとってはオリエンタリズムの感じられる場所だからなのかもしれない(ちょうど、タルコフスキーの『惑星ソラリス』で東京の高速道路が近未来の風景として用いられたように)。また、ゴダールの『アルファヴィル』と比較する記事をよく見かけるが、ロケハンによる近未来世界の再現や、高度にコントロールされた社会における愛の物語というテーマという部分において、両者はたしかに似ている。ただし、『CODE46』のほうが『アルファヴィル』よりもずっと切なく、ある意味で残酷な幕切れになっているのは、今現在のほうが、あらゆる恐怖に脅かされ、貧富の差はますます拡大し、高度にコントロールされた社会を身近に感じることができるようになったから、なのかもしれない。

ラストシーンでは、コールドプレイの「Warning Sign」が流れる。これもまたその場面にはぴったりの選曲なのだが、もはや物語的にそれ以上何も言う必要は残されてはおらず、ここでその音楽が流れるのは、いかんせん説明的・感傷的に過ぎるような気がした・・・・・と感じてしまったのは、僕がコールドプレイをあまり好きではないからなのだろうか。

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「ドリーマーズ」 (2003年イギリス=フランス=イタリア作品)
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
出演:マイケル・ピット、エヴァ・グリーン、ルイ・ガレル、ロバン・レヌーチ ほか


1968年の春。アメリカ人留学生マシューは、語学勉強のためパリを訪れていたが、実際のところ学校にはほとんど通わずに、シネマテーク・フランセーズ(フランスの有名な国立映画ライブラリー)に日参する、映画三昧の日々を送っていた。ある日、シネマテークの創設者アンリ・ラングロワの解雇に抗議するために集まったシネマテークの前で、マシューはイザベルとテオという双子の姉弟に出会う。映画を介して、瞬く間に意気投合した彼らは、バカンスで両親が不在の間、姉弟のアパルトマンでの共同生活を送ることになる。シネマテークは閉鎖され、どこにも行くところがない3人は、答えの分からない者に、罰ゲームを課す映画クイズを始めるが、閉じられた空間の中で、やがてそれは無邪気で奔放な、セクシャルなものへと変貌していく・・・・・

「君たちは?2人ともパリ生まれなの?」
「私は1959年にシャンゼリゼで生を受けた。私が最初に発した言葉を?」
「何だったの?」
「ニューヨーク・ヘラルドトリビューン!」


上記の会話が、ゴダールのデビュー作『勝手にしやがれ』を念頭においたものであることが即座に分かる人と、そうでない人とでは、おそらくこの映画に対する見方も違ってくるのではないしょうか。シネマテーク前における抗議活動を捉えた場面において、当時と現在のジャン=ピエール・レオーがカットバックで交互に挿入されるくだりもまた然りで、ハナっから観る人を選んでしまうのではないだろうかという危惧もあるのですが、ベルトルッチのヌーヴェルヴァーグ(特にゴダール)への傾倒は今に始まったことではなく、『革命前夜』では、やはりゴダールの『女は女である』が引用されていましたし、『ラストタンゴ・イン・パリ』では、ジャン=ピエール・レオーをゴダールやトリュフォー映画そのままのキャラクターとして登場させたりもしていましたので、少なくともベルトルッチのファンにとっては、彼が長年拘ってきたものに対して、いよいよ真正面から取り組んだものとして歓迎する向きもあるかもしれません。ただし、これは(僕が思っていたような)ヌーヴェルヴァーグについての映画、映画についての映画ではない、ということは強調しておいたほうがいいかもしれません。中盤以降展開されるセクシャルな描写などは、先に書いたような、観る人を選びがちな要素を穴埋めする、監督のバランス感覚の顕れではないか、とさえ感じていたのですが、それが延々と続いていくのを観るにつれて、やはりセクシャルな要素それ自体がこの作品のテーマのひとつであると思わざるをえなくなりました。「ベルトルッチも老いて、ヌーヴェルヴァーグを回顧的に捉えるようになったのか」なんて(僕が淡い期待を持っていたのはそれだったのですが)とんでもないことで、彼があの時代に対して強い思い入れがあるのは事実でしょうが、それを今取り上げたことに関しては、それが現代に通じるテーマがあると感じたからに違いないでしょう。そのテーマが「愛と革命」であることは間違いのないところですが、最終的には、愛と革命は相容れない、と結論付けていることは興味深いことのように思われます。

この作品を観てから、この映画の現代性はどこにあるのだろうか、としばらく考えていたのですが、最近になって連日報道されている、イスラム系移民の少年が警察から逃げようとして感電死した事件をきっかけに、パリの郊外地区で拡大している暴動についての記事を目にするようになって、その答えがいくらかは分かったような気もしました。

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「ビフォア・サンセット」 (2004年アメリカ作品)
監督:リチャード・リンクレイター
出演:イーサン・ホーク、ジュリー・デルピー ほか


リチャード・リンクレーターによる『恋人たちの距離(ディスタンス)』の続編。前作のラストで半年後にウィーンで再会を約束したはずのふたりが、ようやく9年後にパリで再会することになった模様を、80分間という映画と現実との時間をリンクさせる形で描いているのですが、主演のジュリー・デルピーとイーサン・ホークも脚本にクレジットされているこの作品、単に時間軸の一致というに留まらず、前作に較べて、より主演ふたりの現実の生活を反映させたものになっていると思います(映画と同じくイーサン・ホークは作家デビューを果たし、ジュリー・デルピーも歌手としてCDを出しています。また、映画の中で妻との不和について語るイーサン・ホークはこの後、現実にもユマ・サーマンと別れることになります)。

ビフォア・サンセットおそらくは続編を意識してなかったであろう前作では、ある程度のドラマ性や結論めいたものが必要になりましたが、この続編ではそういった要素が最小限にまで切り詰められて、ふたりの会話がドラマの中心であり、物語を進行させていくというスタイルが極北まで追求されているといった感があります。そして、ふたりが交わすその会話の内容は、さすがに9年を経過しただけあって、前作に少し感じられた教養のひけらかし的な要素(それはふたりが若かったことの証でもありますが)は薄まってはいますが、代わりにストレートな物言いは潜め、お互いの腹の内を探るような婉曲された表現が多用されることになります。一番聞きたいことを聞きたいとは言えず、核心の部分を相手から先に聞き出そうとするかのような会話の駆け引きの妙がこの続編の肝であり、限られた時間とミニマルな状況の中で、それはサスペンスフルな色彩さえ帯びてくるのです。

前作から9年、と聴いて多くの人々が杞憂に感じたのは、主演ふたりの容貌の変化について、ではないでしょうか。イーサン・ホークはそれでもこの間ある程度出演作がコンスタントにあったために予想がついていましたが、ジュリー・デルピーに関しては、9年前がまさに妖精の如く可愛いルックスだっただけに落差が大きかったらどうしよう(?)かと思っていましたが、さすがに年をとってシワが目立つ部分も確かにあるとしても、いまなお(映画の中でイーサン・ホークが言ったように)「美しい」のは、さすが、だというべきでしょう。

エンディングは前作以上に曖昧な形で、観る人によっては「ここで終わるの?」といった感想を持つかもしれません。実際、リンクレーターによれば続編の可能性もあるそうですから、そういった含みを持たせたうえでの結末だといえるのかもしれませんが、個人的には、映画はここで終わるが人生はまだまだ続く、といった感じのこのエンディングがとても気に入っています。何より、ジュリー・デルピーのあの忘れ難いダンス・シーン以上に素敵な幕切れを探すのは容易なことではないでしょうから。

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「マッチポイント」 (2005年イギリス作品)
監督:ウディ・アレン
出演:ジョナサン・リース・メイヤーズ、スカーレット・ヨハンソン、エミリー・モーティマー、マシュー・グード ほか


『僕のニューヨーク・ライフ』や『メリンダとメリンダ』といった、最近のあまり評判の芳しくない作品でもそれなりに楽しめてしまうような、重度のウディ・アレン信者の僕だが、これは贔屓目無し、掛け値無しに、久々のアレン映画の傑作だと思う。

巷では「アレンの新境地!」的なことがさかんに言われており、その点は認めるものの、果たして一体どこが変わったのだろうか?思うにそれは、映画の中心的人物を演じる4人の俳優たちにあるのではないか。それも彼らの演技ではなく、彼らのルックス、つまり彼らはみな美男美女であるという、ただそれだけのことであるように思われる。しかし、それだけのことがアレンの映画を大きく変えてしまっている。この映画で描かれた官能的なシーンはいつものようにアレン自身が主人公を演じていれば、思いついたとしても実行できなかっただろうし、浮気を疑われたジョナサン・リース・マイヤーズが並べ立てる言い訳だって、それと全く同じ台詞をアレンが言ってしまえばコメディになるだろう。アレン映画としては、初めて2時間を超える長さとなったこの作品の間を持たせることができたのは、ひとえにスクリーンを彩る美男美女たちの存在のおかげだと言っていい。

これは映画の中だけに限ったことではないだろう。実生活においても、やはり、美しい人は立っているだけで絵になるし、その顔に笑みが広がったり、あるいは愁いが覗いたりするだけで、見る者の心は奪われ、溶かされ、ドキドキさせられてしまう。さらに、彼らの口から出る言葉にはすべて重要な意味が隠されているかのように考えて、時には本人が想う以上のことを受け手のほうが感じとってしまう。しかし、普通の人はそうはいかない。見つめるだけで他人をうっとりとさせることなどできはしないし、そもそもじっと見つめられなどしない。伝えたいことも伝わらずに、言葉数は多くなり、余計なことばかりを喋ってしまう。そして、存在だけでは足りないから付加価値を高めようとする。才能、地位、収入、車、ファッション・・・・・そういった付加価値を求めるのは他者への渇望があるからで、その渇望の発露が時に表現となるのだろう。

ウディ・アレンの映画の、特にアレン自身が登場する映画における饒舌ぶりは、まさに相手を自分に振り向かせようとする衝動のあらわれのように思われる。奔流のように彼の口から溢れ出てくる言葉のすべてを理解できる人はそれほどいないのかもしれないが、やはり彼は喋り続けるのを止めることができない。黙っていたって何も伝わらない。話しても伝わるとは限らないが、それでも、僕は君に伝えたいことがあるから。

冒頭にも書いたように、『マッチポイント』が傑作であることは疑いがなく、シリアス路線のアレン映画としてはこれまでのところ最高の成功作であるとも言えるだろう。しかしながら、ここには止むに止まれない衝動のようなものは皆無だ。巨匠、という形容詞はウディ・アレンには似つかわしくないと思っていたが、この作品ではむしろそういった匠の技、客観的に眺めながら駒を動かしていくような余裕が感じられる。ウデイ・アレンは1936年生まれだから、今年で70歳。もはや無理の利かない年齢なのかもしれないが、最後の悪足掻きのような作品も観てみたい。


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「マリー・アントワネット」 (2006年アメリカ作品)
監督:ソフィア・コッポラ
出演:キルスティン・ダンスト、ジェイソン・シュワルツマン、リップ・トーン、アーシア・アルジェント、スティーヴ・クーガン ほか


オープニングクレジットのバックには、70年代のポストパンク・バンド、ギャング・オブ・フォーの“Natural’s Not In It”が流れ、そのクレジットの途中で映し出される、ソファに横たわるマリー・アントワネットは、まるでその存在に気付いたかのようにカメラを(観客を)見つめ返す。まだ何も始まっていないうちから、この映画はその性格を観る者に伝えてきます。つまり、これは歴史ロマン大作などではないのだと。

本編が始まってもその傾向は続きます。ルイ16世の戴冠式にはザ・キュアーの“Plainsong”が、その後の舞踏会ではニュー・オーダーの“Ceremony”が流れるといった、時代考証をまったく無視した音楽の使い方。また、マリーの浪費の一例として、画面に映し出される靴のコレクションの中には何故かコンバースが紛れていたり、マリーと娘が暮らす別荘のプチ・トリアノン宮殿における場面では、背景の青空に飛行機雲が横切っているのがはっきりとカメラに収められています。これらの演出は明らかに意図的に成されたものであり、特に執拗なまでの音楽の使用パターンについては、常に観る者に覚醒を促し、マリー・アントワネットを18世紀に埋もれさせてはならないとしているかにも思えます。

マリー・アントワネット現代のセレブリティであるソフィア・コッポラ(フランシス・コッポラの娘)が、かつてのセレブを撮っただけ、という意見を本人が肯定するわけはありませんが、僕にはそれほど的外れな感想ではないように映ります。ただ、ソフィア・コッポラがマリー・アントワネットに共鳴したのは、おそらくそれとは別の部分において、なのでしょう。ソフィアの前作『ロスト・イン・トランスレーション』を踏まえてみると、『マリー・アントワネット』をより理解しやすくなるような気がします。それどころか、『マリー・アントワネット』は『ロスト・イン・トランスレーション』の変奏ヴァージョンといっても差し支えないようにも思われます。異国の地で夫に相手にされず身寄りもない主人公、という共通した設定はもちろん、『マリー・アントワネット』のヴェルサイユ宮殿と、『ロスト・イン・トランスレーション』のパーク・ハイアット東京とは、その主人公が幽閉される象徴的な建物として置き換えることも可能でしょうし、『マリー・アントワネット』の仮面舞踏会と、『ロスト・イン・トランスレーション』における、東京のナイトクラビングの場面についても、ともに主人公がそれまでにない解放感を味わう瞬間としての相似性が感じられます。ラストでヴェルサイユを馬車に乗って去っていくマリー・アントワネットの姿は、そのまま『ロスト・イン・トランスレーション』のエンディングにおいて、タクシーで空港へ向かう(=東京を去る)シャーロットとダブってくるようです。ソフィア・コッポラの東京における個人的な経験が、『ロスト・イン・トランスレーション』制作の発端となったのであれば、その経験を今度はマリー・アントワネットという歴史上の人物に重ね合わせてみた、という風に解釈するのは、もちろん下衆の勘繰りにしか過ぎないのですが、しかし、それだけで片付けてしまうには、状況証拠が揃っているようにも思えてしまうのです。

マリーの浪費の象徴として、お菓子やシャンパン、ドレスや靴といったモノたちが止め処無く画面に映し出されていくのを観ながら、僕はオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を思い出していました。香水、宝石、織物などについて、延々と数ページにわたって書き連ねたワイルド同様、ソフィア・コッポラにもまた、物語が要請する以上に、そういった美しく煌びやかなモノに対するオブセッションのようなものが感じられます。じっさい、これほど物質主義的な描写に徹した歴史映画も珍しいでしょう。着替えの儀式が何度も繰り返されるのに較べて、『ベルサイユのばら』のモデルともなった、有名なマリーとフェルゼン伯爵との長年にわたる不倫関係については、まるで一時の気紛れであったかのような描写に留めてられていますし、次女の死亡については、家族の肖像画の架け替えで表現されているにすぎません。このキャラクターの深層心理と関わることを拒絶したようなスタンスと、ひたすら画面を占拠するモノたちによって、ルイ16世とマリー・アントワネットの宮廷生活がまるで浮ついたママゴトでもあるかのように感じられてしまいます。その現実感の無さによってこそ、彼らは断頭台の露と消えなければならなかったのだ、と結び付けられなくもないのですが。

「フランス政府の協力のもと、ヴェルサイユ宮殿における完全ロケ!」という謳い文句に関しては偽り無し、といったところでしょうか、最初から最後まで見目麗しいビジュアルで占められています。ヴェルサイユの内部を移動するカメラの僅かな揺れからは、カメラのこちら側で、喜びに興奮しているソフィア・コッポラの姿が伝わってくるかのようです。そこに共感できるかどうかによって観る者の評価も分かれてくるのかもしれません。僕は気に入ったな。

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「ジェリー」 (2002年アメリカ作品)
監督:ガス・ヴァン・サント
出演:ケイシー・アフレック、マット・デイモン


砂漠を横断する若者二人が中途で車から降りて、興味本位で砂漠を散策するうちに遭難してしまう。三日三晩彷徨った後に何が起こったのか?

ロバート・アルトマンの『ザ・プレイヤー』においてティム・ロビンス演じるプロデューサーは、自作の脚本を売り込みにくるライターたちに対して、その内容を「25語で」説明するよう要求する。『ジェリー』の内容について25語以内で説明するのは容易いことかもしれない。しかし、ティム・ロビンスにゴーサインをもらえることもないだろう。この企画が実現したのは、『グッド・ウィル・ハンティング』以来の、ガス・ヴァン・サントとマット・デイモンのコラボレーションが復活したという、ただ一点につきるのではないだろうか。それでいて、第二の『グッド・ウィル・ハンティング』を期待すると失望すること間違いなしの作品でもある。

こういった気の削がれるような書き方をするのは、この映画をこれから観るような人がいるのであれば、ある程度の覚悟(?)を持って鑑賞に臨んでほしいと思うからである。これは第二の『グッド・ウィル・ハンティング』などではまるでなく、また日本では公開順が逆になったために、<『エレファント』の原点>として喧伝されたが(気持ちは分からなくはないが)、やはりそれとも幾分異なる。それら2作品はタイプこそ違えども、所謂<よく出来た>映画であり、それに較べると『ジェリー』はおよそ商業的に優れた作品とは言い難いし、アイデアだけを加工せずに抛り投げてしまったようにも思えてしまう。例えれば、バンドのデモテープや未発表音源を聴いている感覚に近い。あるいは、劇中の二人が何か失敗した時に言うように「ジェリった」映画だと言えるかもしれない。

しかし、ビートルズの『アンソロジー』シリーズを彼らのオリジナルアルバムと同列に並べて評価する人はあまりいないだろうが、それでも『アンソロジー』が面白い作品であるのと同様、この『ジェリー』も観る価値は十分にある。ただし、『ジェリー』には更なるハードルが聳えている。それは睡魔との闘いであり、冒頭でアルヴォ・ペルトの「鏡の中の鏡」が流れてくるだけでもう駄目だという人もいるかもしれないが、実際にドラマが動き出すには、更に一時間以上待たなければならないのだ。再びアルヴォ・ペルトの「アリーナのために」が流れ出す時点から、ようやくこの映画は真価を見せ始める。ハイスピードカメラを用いた美しいイメージが挿入され、画面には俄然緊張感が漲ってくる。『エレファント』の原点を探し求めるのであれば、また映画の内容を理解したいだけであれば、後半30分だけ観ればいいかもしれない。しかし、映画を本当に<観る>のであれば、前半の退屈な1時間はどうしても必要である。そうでなければ、クライマックスの行動を理解する、とまではいかなくとも、(映画内での)説得力を与えることができないからである。

どうして、われわれは5分間何も起こらないような映画を観ると我慢がならないのだろう。それは何か車を運転しているときと似ている。別に一分一秒を争うときでなくとも、渋滞やノロノロ運転に遭遇するとイライラしてしまう。信号をひとつ無理に渡ったところでまた次の信号でつかまってしまうというのに。『ジェリー』の退屈さに我慢がならない人がいる一方、『スパイダーマン』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』のチケットを買うために長時間並んでも苦にならない人もいる。そこには時間と思考との関係性があるような気がする。『ジェリー』やアルヴォ・ペルトの音楽のような、ある意味隙間だらけの芸術作品に接すると、人は自身の内へと耽溺して思考しないではいられなくなる。かたや『スパイダーマン』を観たり、大音量のロックを聴いたりすると、その間思考は停止してしてしまう。いずれにしろ、それらは「美」とはなんの関係もないのだが。

『ジェリー』の退屈な105分の間に、われわれは思考停止の文化の中に住んでいる、と思考する。

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「弓」 (2005年韓国作品)
監督:キム・ギドク
出演:チョン・ソンファン、ハン・ヨルム、ソ・ジソク ほか


海に浮かぶ舟に暮らす老人と少女。ボートで陸地から釣り客を船まで運んできて生計を立てている。彼らに血の繋がりはなく、10年前に拾った(拉致した?)少女を老人が育ててきたのだった。老人は少女の17歳の誕生日に結婚しようと計画し、婚礼の衣服を少しずつ集めながらその日を心待ちにしている。そんなある日、釣り客のひとりとしてやってきた青年と少女が惹かれ合うことにより、老人と少女のふたりだけの世界は崩壊しはじめる。少女に外の世界を見せるべきだと主張する青年と、あくまで少女との結婚に固執する老人。果たして少女の選択は・・・・・


『弓』はキム・ギドクの記号論的映画だ。至るところにこれまでのギドク作品を想起させるような部分が散見する。水上でストーリーが展開されるのは『魚と寝る女』や『春夏秋冬そして春』と共通のものであり、内容的には『悪い老人』、あるいは『魚と寝る老人』といっても差し支えないようなものだ。画面を彩るオリエンタリズムは『春夏秋冬そして春』、また男の好奇の視線に晒され続ける軟禁(監禁)状態にある少女の姿からは、『悪い男』『サマリア』『うつせみ』などを連想するのはさほど難しいことではない。繰り返し、ワンパターンといった批判は当然あるだろうが、少女が釣り針を弄ぶシーンを唐突に挿入し、『魚と寝る女』を観たことがある者にイヤな予感を催させるあたり、監督自身意識的に自作の構成要素や題材について再検証を図ったようなフシがある。ギドク・ファンならば、むしろこれまでの諸作品に思いを巡らしながら観るのもまた一興だといえるのかもしれない。

弓『春夏秋冬そして春』以降ギドク作品が変わったというのは自他ともに認めるところであり、それ以前の作品にあった初期衝動や怒りのような要素が薄まっているのはたしかだろう。『魚と寝る女』を愛する僕のような者にとっては一抹の寂しさもなくはないのだが、『弓』が12作目となるような監督にとって、作品の洗練度が増し、巧みな映画作法を身に付けていくのは当然のことかもしれない。しかし、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のような完成度の高い作品においても、頭を撃ち抜かれたギャングの死体がピクピクと震える様をカメラに収めずにはいられないデヴィッド・クローネンバーグのように、キム・ギドクの映画作家としての成熟もまた通常のそれとは異なっている。考えてみてほしい、映画を覆うオリエンタリズムに惑わされそうになるが、その麗しい表面を一皮剥がせば、これは鬼畜系変態映画といってもいい内容ではないか。ギドクが男のエゴについて描くとき、ある程度類型的な設定を利用していることは否めないように思う。しかし、そこから生み出されるものは類型的どころか、世界レベルで見ても例を見ないユニークでオリジナルな作品として提示されるのが、この映画作家の非凡な所以ではないだろうか。

老人のエゴは少女に自我の発露をもたらす。剥き出しのエゴとエゴのぶつかり合いが、弓を持つ手を震わせ、奏でる音楽の調性を狂わせる。美しいがありきたりな結末を迎えたにみえたその時、一本の矢が奇跡を呼ぶ。キム・ギドクはファンタジーの力を借りて、物語を無理矢理捩って、予測のつかない方向へと押し進める。ディズニー映画のようなそれではなく、一部の人にとっては目を背けたくなるようなファンタジーによって。

一言も喋らない人物というのはギドク映画においてお馴染みになりつつあるが、この作品においても老人と少女は劇中一言も声を発することはない。特に後半30分は台詞のまったくない、無言劇かサイレント映画かといった一種異様な世界が展開されていく。「他の人に話させることによって、主人公の魅力が際立つ効果がある」と、あるインタヴューでギドクは語っていたが、この映画について取り上げたネット上のHPやブログを眺めていると、『弓』という映画自体にもその言葉が当て嵌まるような気がした。キム・ギドク映画の寡黙さは観る者を多弁にさせるのかもしれない。そしてまた僕も、『弓』について語らずにはいられない。

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「ロード・オブ・ウォー」 (2005年アメリカ作品)
監督:アンドリュー・ニコル
出演:ニコラス・ケイジ、ジャレッド・レト、ブリジット・モイナハン、イーサン・ホーク ほか


ウクライナからの移民として、ニューヨークのリトル・オデッサで飲食店を営む家族に生まれたユーリ。ある日、向かいの店でロシアン・マフィアの抗争による銃撃戦を目撃した彼は、銃の売買を始めることを決意する。やがて自分には意外な商才があることに気付き、弟をも巻き込んで、「死の商人」と呼ばれる、世界を股にかける闇の武器密輸業者へと変貌してゆく。少年時代から憧れ続けてきた女性と結婚し、一男をもうけ、幸せな家庭生活がある一方で、法の抜け穴を突いて、インターポールのジャックに追われ続けながらも、ますます闇の世界へと身を投じていくのだった・・・・・


本人には何の責任もないのだが、世の中にはどうにも苦手なルックスをした人がいるもので、僕にとってはニコラス・ケイジがまさしくそれにあたる。見ていて濃ゆくて暑苦しいというか、何とも説明し難いのだが、とにかく生理的に受け付けないのである。それだけに、彼が出演しているというだけで、その映画に対する感想は辛口なものとなってしまう。世評の高い『フェイス/オフ』などもそうで、ニコラス・ケイジだけならまだしも、ジョン・トラボルタ(これまた苦手な俳優)との悪夢のダブル・キャストによって、荒唐無稽なストーリーが、2丁拳銃や白い鳩が登場する、ジョン・ウー監督の鬱陶しい美学に上塗りされて展開される、という耐え難い2時間を過ごす羽目になってしまった。ゆえに、この『ロード・オブ・ウォー』に関しても、興味を惹く題材にも関わらず、映画館に行くことはなく、今まで観る機会がなかった、という訳である。しかし、案外これが良かったのだ。映画が良ければ、出ている俳優などは関係がないのか、いけ好かないニコラス・ケイジがいけ好かない役柄を演じていたのがよかったのか、違う俳優ならもっと高く評価することができたのか、よく分からないが、僕のニコラス・ケイジ・アレルギーが治ったというわけではなさそうである。

さて、映画そのものについても言及しなければいけない。とにかく、開巻早々、弾丸が工場で生産され、港から港へと輸送され、戦地へと運ばれ、そこで民間人の頭蓋骨にめり込んでいく迄を、ひとつの弾丸のカメラ視点で描く、そのオープニング・シーンの格好良さだけでノックアウトされてしまった。この後も、おしなべてこの調子で、自家用ジェット機が解体される様を超微速度で撮影したシーンなど、シニカルでブラックな世界観をケレン味たっぷりの映像で描いている。しかし、最後のクレジットにあるように、この作品は実話に基づいたものだ。ニコラス・ケイジの足下一面に広がる、数えきれないほどの弾丸は決して誇大表現ではないのである。また、この映画はひとりの悪漢がどのようにして生まれるのか、というその過程を描いているという面で観ても面白い。ニューヨークの下町で燻っていたひとりの若者が、いかにして世界を股にかける悪名高い武器商人へと変貌するのか。本人はその悪をまったく自覚していない。映画の中の台詞にもあるように、「飲食店事業は食べる必要を満たすため、ならば私は別の必要を満たす事業を」なのである。最後に主人公はすべてを失う。弟は殺され、両親からは絶縁され、妻と子は家を去っていく。それでも、本人は嬉々として、自らの天分である「商売」の世界へと舞い戻っていくのだ。

監督はアンドリュー・ニコル。『トゥルーマン・ショー』の脚本家として記憶している。あの作品が現実的な非現実だったとすると、この『ロード・オブ・ウォー』は非現実的な現実だといえる。いや、実際のところ、いまやこのふたつにさほどの違いはないのかもしれない。

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